HISTORICAL PERSON · 1754年没

クリスティアン・ヴォルフ

ドイツの哲学者・近世自然法論者で、ライプニッツからカントへの橋渡し的存在。ハレ大学でドイツ語による講義と著作を行い、孔子を賞賛した演説がもとで退去を命じられた。

生涯
1754年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ザクセン=アンハルト州 / ハレ)
出生地
ポーランド共和国(ヴロツワフ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ザクセン=アンハルト州)

伝記

クリスティアン・ヴォルフは、1679年1月24日に生まれ、1754年4月9日に没したドイツの哲学者で、近世自然法論者でもある。ライプニッツからカントへの橋渡しをした存在とされ、1745年には男爵に叙された。

シュレージエン(シレジア)のブレスラウで、パン屋の息子として生まれ、質素な家庭に育った。最初は神学を学び、イェーナ大学とライプツィヒ大学で哲学と数学を修めた。1702年にライプツィヒで、実践哲学を数学的方法で論じた論文を提出し、1703年に同大学の私講師となった。1704年からライプニッツと交わり、その推薦で、のちにハレ大学の数学・自然学の教授となった。1716年には郡長の娘カタリーナ・マリア・ブランディスと結婚し、多くの子のうち、1722年生まれの息子フェルディナントだけが彼より長生きした。従来の習慣を破って、ドイツ語で著作し、講義をしたことでも知られる。ハレ大学では最初は数学に専念していたが、同僚の退職で物理学を加え、やがて哲学の主要な分野をすべて扱うようになった。

しかし、理性を重んじる彼の主張は、神学者たちには不敬と映った。ハレは敬虔主義の拠点で、神学上の真理を数学的に確実な証拠に基づかせるという彼の理想は反発を招いたのである。対立は1721年に表面化し、副学長を辞任するにあたって行った「中国人の実践哲学について」という演説で、孔子の道徳の純粋さを賞賛した。孔子の道徳が、人間の理性が自力で道徳的真理に達する力を持つ証拠だと述べたのである。ヴォルテールによれば、敬虔主義の神学者フランケの教室がほぼ空だったのに対し、ヴォルフの講義には世界中から約1,000人の学生が集まったという。1723年、彼は無神論や宿命論と非難された。有名な教師に嫉妬した神学者らが、予定調和説を歪めて、「兵が脱走しても宿命がそうさせたのだから罰するのは不当だ」と主張しているかのように、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世に告げ口したためともいわれる。怒った王は彼の職を奪い、48時間以内に領内を去らなければ絞首刑にするとして退去を命じ、その著書の使用や講義も禁じた。

ヴォルフは同じ日にザクセンへ出て、まもなくヘッセン=カッセル方伯領のマールブルクに移り、以前から招かれていたマールブルク大学の哲学科主任教授となった。追放の経緯は彼の哲学に世間の注目を集め、賛否を論じる書物や小冊子が200冊以上出た。ロンドン王立協会、パリとストックホルムの科学アカデミーの会員資格を与えられ、ロシアのピョートル1世からはペテルブルク・アカデミーの副会長に指名されるなど、ヨーロッパ全体に名声が広がった。ハレ大学を訪れる人が激減して、間接国税が減ったのに驚いた王は彼を呼び戻そうとしたが、応じなかった。1740年にフリードリヒ2世が即位すると、ハレ大学に復帰し、1745年に学長となった。晩年は令名も色あせ、最後は聴講席ががら空きだったという。

ドイツ語圏にはまだ固有の哲学用語の体系がなく、ラテン語による著述が主だったなかで、ヴォルフはドイツ語の哲学用語を確立し、その造語の多くは今も使われている。ライプニッツの表象概念を基礎に体系的な形而上学を構想し、哲学を神学から独立させ、彼とその後継者の哲学はライプニッツ=ヴォルフ学派と呼ばれる。その哲学は啓蒙思想の代表の一つで、ドイツの大学で講じられた講壇哲学の基礎をなした。カントも自著ではなくヴォルフ学派の形而上学書を講義の教科書に指定したが、その一方で、彼らを独断論と位置づけて批判した。

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