伝記
エラリーコは、541年に数か月だけ東ゴート王国の王となった人物である。エラーリコ、ヘラリック、アリアリックとも呼ばれる。ゴート人ではなく、ルギ族の出身だった。
ルギ族もゴート系とされる民族で、多くがテオドリックのイタリア遠征に同行した。ただし東ゴート人とは混じり合わず、半島のどこか、今では場所のわからない地に定住し、混血を避けて約60年にわたり独自の特質を保ったという。エラリーコはそのルギ族のなかで際立った存在で、民に対して大きな権威を持っていた。541年には、イルディバルド王のもとで東ローマ帝国との戦争に加わるゴート軍にいたとされる。
541年の5月か6月、イルディバルドが暗殺された。東ゴート王国は、東ローマとの苦しい戦いが7年目に入ったところで、主を失った。この混乱のなかで、ルギ族が自分たちの仲間のエラリーコを王に推し立てた。東ゴートの人々は、少数のルギ族が出しゃばったことに不満を抱いたが、しぶしぶ彼を王として認めた。王となったエラリーコは評議を開き、東ローマ皇帝ユスティニアヌスと和平を結ぶよう人々を説いた。カバラリウスらをコンスタンティノープルへ使節として送り、540年にヴィティージェが合意した条件、つまりゴート人がポー川の北へ退き、シチリアとポー川以南のイタリアを手放す内容での和平を図ろうとした。
しかし、これとは別に密約も進めていたとされる。イタリア全土を皇帝に引き渡し、自らは退位する代わりに、多額の金銭とパトリキウスの称号を得るというものである。使節団がまだ都にとどまっているあいだに、事態は動いた。東ゴートの人々は、戦場で何も成し遂げない彼の無能に不満を募らせていた。また、イルディバルドの死に彼が関わったと疑ったともいわれる。人々は、トレヴィーゾを守っていたイルディバルドの甥トーティラに王位を差し出した。トーティラは、尊敬する叔父の殺害に憤り、すでに皇帝側の司令官と降伏の交渉をしていたが、エラリーコが除かれるなら選出を受け入れ、戦いを続けると約束した。
エラリーコは、わずか5か月の統治ののち、541年のうちに殺された。5月から10月までの統治とも、11月か12月に殺されたともされる。トーティラの従者に殺されたとも、自らの近衛の一人に暗殺されたともいわれ、この暗殺はトーティラの差し金だった可能性が高いとみられている。後継の王となったのはトーティラである。エラリーコの治世は、ほとんど実績のないまま終わった。
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