伝記
初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールは、1676年8月26日にイングランド東部ノーフォークの寒村に生まれ、1745年3月18日にロンドンで没したイギリスの政治家である。父は地主で、のちに庶民院議員も務めた。夫妻は19人の子をもうけ、彼はその第5子の三男であった。ウォルポール家は爵位貴族ではないが、13世紀まで系図をさかのぼれる旧家だった。イートン校を経てケンブリッジ大学キングス・カレッジに進み、父から聖職者になることを望まれていたというが、1698年に長兄が急死し、次兄も以前に大同盟戦争で戦死していたため、急遽、家の跡継ぎとなった。父の命令で大学を退いてホートンへ戻り、地主業の勉強に専念した。1700年に裕福な材木商の娘と結婚したが、妻はわがままで、後にうまくいかなくなった。同年11月に父が没し、財産を相続した。
1701年にホイッグ党の庶民院議員に当選して政界入りした。1702年にはキングス・リンから選出され、以後40年にわたってこの選挙区の議席を保った。トーリー党が中心の政府に対して野党として論争を挑み、高い討論力でたちまち院内の主導的人物となった。1705年の総選挙で与野党の議席が伯仲すると、ホイッグの若きエースと評判だった彼は海軍本部委員会の委員に任じられ、1708年には戦時大臣となった。しかし世論のホイッグ批判の高まりや、1710年の総選挙でのホイッグの敗北により、1710年10月に辞職し、1711年1月に完全に下野した。
その後もトーリー政府を批判したため、政府に危険視され、1712年1月には、軍馬の秣の契約の際に知人が1000ポンドの公金を着服するのを助けたとして、議会の議決で議会追放とロンドン塔への投獄を受けた。汚職自体は事実だったが、当時の基準では重いものではなく、政治的弾圧の要素が強かったという。7月8日に釈放されると、「殉教者」としてホイッグ内で英雄視された。
1714年にハノーヴァー朝のジョージ1世が即位してホイッグ政権が生まれると、陸軍支払長官に就き、前トーリー政権の責任追及の中心人物となった。1715年には第一大蔵卿に就任したが、国王やスタンホープのハノーヴァー優先の外交を批判して、1717年に下野した。1720年に南海泡沫事件が起こると、政権の外にいたため責任を問われない立場で後始末を指揮した。事件で多くのホイッグ有力者が辞職や死去に追い込まれたため、主導権を握る形になり、1721年4月に第一大蔵卿に就いた。閣議を主宰して閣僚を統制し、議会の与党を率いて議会の支持を基盤に政治を行ったことから、この時期の彼を「初代イギリス首相」とするのが一般的である。トーリーや反政府派にジャコバイトのレッテルを貼って議会を掌握し、政府の機密費を使った買収などで総選挙にも勝った。言論の統制にも努め、1737年には演劇検閲法を制定した。
外交では戦争を避ける平和路線を取り、経済政策では地主や商人を優遇した。しかし1733年のタバコ消費税法案が商人らの反発で挫折して求心力を落とし、1739年にはジェンキンスの耳の戦争を余儀なくされた。1741年の総選挙で与党が議席を減らすと、1742年2月に辞職し、オーフォード伯爵に叙せられた。20年に及ぶ長期安定政権は、イギリスが商業国家として躍進する基礎を築いたと評価される一方で、金権政治をもたらしたとの批判もある。
同じ年に亡くなった人物
- エルンスト・フリードリヒ2世 (ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公) (1745年没)
- ジョナサン・スウィフト (1745年没)
- ヤン・ディスマス・ゼレンカ (1745年没)
- ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラント (1745年没)
- アントワーヌ・フォルクレ (1745年没)
同じ地域に関係する人物
- フレディ・ヤング (1998年没)
- トーマス・ウールナー (1892年没)
- グイード・ピオヴェーネ (1974年没)
- ジョージ・ビング (初代トリントン子爵) (1733年没)
- マーク・イザムバード・ブルネル (1849年没)