HISTORICAL PERSON · 1743年没

スペンサー・コンプトン (初代ウィルミントン伯爵)

イギリスの政治家・貴族。庶民院議長などを経て1742年にウォルポールの後任の首相となったが、実権は他人が握り、在職のまま没した。

生涯
1743年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(ウォリックシャー)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

初代ウィルミントン伯爵スペンサー・コンプトンは、1674年ごろに生まれ、1743年7月2日に没したイギリスの政治家、貴族である。ノーサンプトン伯爵家の第3子として生まれた。母は第3代キャンプデン子爵の娘メアリーで、名誉革命の招聘者の一人であるロンドン主教ヘンリー・コンプトンは叔父にあたる。セント・ポールズ・スクールを経て、1687年にミドル・テンプルに入学し、1690年にオックスフォード大学トリニティ・カレッジへ進んだ。

1698年6月に庶民院議員に初当選した。家は代々トーリー党だったが、兄ジョージとの個人的な確執もあって、本人はホイッグ党に転じた。1704年に酒税法案に反対する演説を行うなど経験を積み、ロバート・ウォルポールらを政治的な盟友として、党内の重鎮となった。同年10月には、会期が近いのにウォルポールが地方から戻らないのに業を煮やして、登院を促す手紙を出し、開会に間に合わせた。1705年11月に選挙委員会議長選挙でトーリー党の候補に勝ち、1707年にはスコットランドとの合同法を通すのに貢献した。やがて年金主計官に任じられたが、1710年の選挙ではコーンウォリス男爵の支持を得られず、同年の弾劾裁判で人気を失ったこともあって議員を退いた。1713年夏には年金を放棄し、直後に年金主計官を解任された。

同年、イーストボーン近くの領地を購入して、サセックス州の選挙区から再び当選した。1714年にハノーヴァー朝のジョージ1世が即位すると、新王朝を支持した。1715年3月に全会一致で庶民院議長に選ばれ、1727年7月に庶民院が解散されるまで務めた。1716年には枢密顧問官となった。1717年から1720年に国王と王太子ジョージが仲たがいしたとき、王太子と昵懇だったため、盟友ウォルポールとともに野党に回った。1720年の南海泡沫事件では、王太子に泡沫会社の総裁にならないよう助言した。

1721年にウォルポールが第一大蔵卿に再任すると、二人の立場の違いが際立った。王太子が即位すれば、ウォルポールの代わりにコンプトンが首相に任命されると見られたため、ウォルポールは彼を内閣政治から締め出した。その代わり、実入りの多い陸軍支払長官に任命し、コンプトンはここで10万ポンドを蓄財したという。1727年5月にジョージ2世が即位すると、国王はウォルポールにコンプトンの指示を仰ぐよう命じたが、国王の枢密院への勅語を起草するよう命じられたコンプトンがウォルポールに助けを求める有様で、結局ウォルポールが重用され続けた。1728年1月に貴族に叙せられて庶民院を去り、1730年5月に王璽尚書、その6日後にウィルミントン伯爵に叙せられた。同年12月からは枢密院議長を務め、1733年にガーター勲章を受けた。貴族院ではほとんど発言しなかったという。

1742年2月にウォルポールが辞職すると、後任の第一大蔵卿(首相)に任じられたが、既に健康を害しており、実権はカートレット男爵らが握っていた。1743年、首相在職のまま、ロンドンで亡くなった。在職は約1年半で、重要な政策に取り組むこともなかった。結婚せず子もなかったため、伯爵位は廃絶した。庶民院議長としては、謹厳な物腰と朗らかな声が議員の尊敬を勝ち得たと評され、「あなたには話す権利があるが、議会にはあなたの話を聞くか判断する権利がある」と返したという逸話が伝わる。米国のデラウェア州やノースカロライナ州の都市ウィルミントンは、彼にちなんで名付けられた。

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