HISTORICAL PERSON · 527年没

ユスティヌス1世

貧農出身から親衛隊の将軍となり、68歳で東ローマ皇帝に選ばれた王朝の初代。読み書きができず、甥で養子のユスティニアヌスが実権を握った。ローマ教会との関係修復に努め、階級違いの婚姻を認める法も制定した。

生涯
527年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出生地
セルビア共和国(Bederiana)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

ユスティヌス1世は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)ユスティニアヌス王朝の初代皇帝で、在位は518年から527年までである。日本語版の資料は生年を450年2月2日とし、スペイン語版は452年頃とする。没年月日は527年8月1日で、正式名はフラウィウス・ユスティヌス・アウグストゥスという。貧しい農民の出でありながら、親衛隊に入って将軍となり、晩年に皇帝となった人物である。

出身はパンノニア属州のベデリアナで、現在のセルビアのニシュ近郊とされるが、スペイン語版はダルダニア地方の同名の村で、現在のスコピエの近くだと記す。トラキア系またはイリュリア系のローマ人で、ラテン語を話し、ギリシア語はわずかしか使えなかったという。少年の頃、二人の仲間とともに異民族の侵入を逃れて首都コンスタンティノポリスに着いたときには、身にまとったぼろ着と、一袋のパンのほかには何も持たなかったと伝わる。文字も読めなかった。新設された宮廷の護衛隊に入り、イサウリア人やペルシア人との戦いで勇敢さを示して、護民官、伯、元老院議員と昇進を重ね、アナスタシウス1世のもとでは宮廷護衛隊の司令官にまで上り詰めた。結婚した相手は、解放奴隷出身とされる女性で、スペイン語版は名をルピキナと記す。

518年7月、アナスタシウス1世が嗣子を持たず、後継者も指名しないまま、86歳か87歳で死去した。有力な親族は少なくなく、宮廷の高官の中にも、別の人物を帝位につけようとする者がいた。しかしユスティヌスは、率いる兵力こそ少なかったが、質の高い兵を握っており、資金で彼らの支持を固めたと、スペイン語版は伝える。元老院は協議の末、68歳の老将軍を皇帝に選んだ。日本語版によれば、甥で養子のユスティニアヌスの大きな助力があった。スペイン語版は、即位時の年齢を70歳近くとしている。

治世は多難だった。アンティオキアの大地震などの災害に見舞われ、対外的にはサーサーン朝ペルシアの侵攻を受け、末年には東ゴート人との対立も抱えた。字の読み書きができない皇帝は、勅令に署名するとき、「私は読んだ」を意味するラテン語の文字がくり抜かれた板を使い、側近の手を借りて、その溝に沿ってペンを動かしたという。甥のユスティニアヌスは、本名をペトルス・サッバティウスといい、母は皇帝の姉ウィギランティアである。ユスティニアヌスという名は、皇帝の養子となったことを表す。法学と神学に通じたこの甥のユスティニアヌスが、腹心として実権を握ったとされるが、スペイン語版は、それは疑わしいと述べる。健康が衰え始めたのは526年で、後継者に正式に指名されたのは、527年4月1日、死の数か月前だったからである。525年には、都市アナザルボスが、彼にちなんでユスティノポリスと改称された。また、先帝の時代に悪化したローマ教会との関係を修復することに努めた。

525年頃には、甥のユスティニアヌスが、踊り子出身のテオドラと結婚した。身分の違いで結婚できなかったため、皇帝は異なる身分の間の婚姻を認める法律を、自らの名で制定した。この措置は当時、世間の反発を招いたという。527年、ユスティヌスは没し、皇位は甥が継いだ。

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