伝記
ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリングは、デンマーク生まれのロシア帝国の航海士で探検家である。1681年にデンマークのホーセンスで生まれ、1741年12月に没した。没日は12月6日とも、ユリウス暦12月8日(グレゴリオ暦12月19日)ともいわれる。父ヨナス・スヴェンセンは税関の検査官で教会の委員、母はアンネ・ペダースダッターである。母方の大叔父ヴィトゥス・ペダーセン・ベーリングは宮廷の年代記作者で、その名を受けた。家は経済的に安定しており、年上の半血の兄二人はコペンハーゲン大学に入っている。
15歳のときに船に乗り込み、1696年から1704年にかけて各地の海を巡ってインドや東インドに至り、アムステルダムで海軍士官の教育も受けた。1703年か1704年にアムステルダムでロシア海軍に入り、大北方戦争ではバルト艦隊の一員として戦い、1710年から1712年には大尉としてオスマン帝国との戦いにも加わった。自身は海戦に出なかったようで、危険な任務の艦を指揮したことが多い。結婚相手はロシア人女性ともいわれるが、スウェーデン商人の娘アンナ・クリスティーナ・ピュルセとされ、2人は18年間に9人の子をもうけ、4人が成人した。結婚後の1715年にいちど故郷に戻ったが、再び訪れることはなかった。戦争が終わっても昇進できなかった彼は、1724年に退役したが、5か月後に復帰を願い出て、艦長に任じられた。
1725年1月、ピョートル大帝の命令で、カムチャツカとオホーツクへの探検隊を率いてサンクトペテルブルクを発った。シベリアを陸路で横断して、1727年1月にオホーツクに着き、冬を越してカムチャツカ半島に渡り、1728年夏までに聖ガヴリール号を造った。同年夏、半島東岸から北へ出発し、カラギン島、アナディル湾、聖ラヴレンチイ島などを発見し、ユーラシアとアメリカの間の海峡を通ってチュクチ海に入った。コルイマ河口まで進まなければ陸続きでないことは確認できないというチリコフの意見を退けて引き返すことを決めた。1730年夏に、重い病を押してペテルブルクに帰還した。
1733年に2度目の探検に出て、アメリカ大陸北部沿岸の調査に加え、千島列島の地図作りや日本への航路の探索も任務に含まれた。ヤクーツクで3年間準備し、1740年秋にオホーツクから聖ペトロ号と聖パーヴェル号でカムチャツカ東岸へ向かい、アヴァチャ湾の奥で越冬した。この地が現在のペトロパヴロフスク・カムチャツキーである。1741年6月4日、ベーリングの聖ピョートル号とチリコフの聖パーヴェル号がアメリカを目指して出発し、6月20日の霧と嵐で互いを見失った。7月17日、聖ピョートル号はアラスカ南岸に至り、アリューシャン列島の島々を発見した。壊血病で死んだ船員シュマギンを葬った島は、その名で呼ばれる。嵐で漂流し、11月にコマンドル諸島の無人島に着いて越冬するうち、多くの船員が壊血病で次々と亡くなり、ベーリング自身も世を去った。のちにこの島はベーリング島と呼ばれ、77人のうちペテルブルクに生還したのは45人だった。1991年の合同調査団が墓を発見し、死因は壊血病でなかった可能性が示され、翌年に遺骨は島へ再埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- エレオノーレ・フォン・シュヴァルツェンベルク (1741年没)
- ゲオルク・ラファエル・ドナー (1741年)
- エリザベッタ・テレーザ・ディ・ロレーナ (1741年没)
- ヴィットーリオ・アメデーオ1世・ディ・サヴォイア=カリニャーノ (1741年没)
- アントーニオ・ペレグリーニ (1741年)
同じ地域に関係する人物
- ウラジーミル・アトラソフ (1771年没)