HISTORICAL PERSON · 1741年没

ウルリカ・エレオノーラ (スウェーデン女王)

カール12世の妹で、兄の戦死後の1718年に空位を防ぐため即位したスウェーデン女王。議会が王権を大きく制限する新憲法を定め、ウルリカは約2年で退位し、夫がフレドリク1世として即位した。

生涯
1741年没
死亡地
スウェーデン王国(ストックホルム県 / ストックホルム)
出生地
スウェーデン王国(ストックホルム)
出典
世界地図
スウェーデン王国(ストックホルム県)

伝記

ウルリカ・エレオノーラは、プファルツ王朝最後のスウェーデン女王で、在位は1718年から1720年である。1688年に生まれ、日付は2月23日とも1月23日ともいわれる。父は国王カール11世、母はデンマーク王女ウルリカ・エレオノーラで、末子だった。上に姉ヘドヴィグ・ソフィアと兄カール12世がいる。1693年に母が亡くなると、祖母ヘドヴィグ・エレオノーラに預けられたが、祖母は活発で才能のある姉を好んだ。兄姉は乗馬や踊りを楽しみ、勇気がなくすぐ泣く彼女を軽んじたという。友好的で控えめな品位ある人柄と評され、不快なときは仮病を使う癖があり、祖母には頑固と言われた。クラヴィーアの腕があり、宮廷の演奏会では姉が歌い、自らは伴奏した。兄の影と姉の華やかさに隠れて、人生の大半を過ごしたとされる。

兄に妻子がなかったため、有力な後継者と目され、縁談が相次いだ。1698年にはデンマーク王子との縁組が浮上したが1700年に消え、プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム1世や、のちの英国王ジョージ2世との縁談も実らなかった。ザクセン=ゴータ公ヨハン・ヴィルヘルムは求婚を許されたが、兄の面前で決闘を起こして頓挫した。1700年からは兄が戦地にいる間、支配的な祖母の世話をした。1708年に姉が亡くなると、祖母を除けばスウェーデンにいる唯一の成人した王族となり、1712年末には兄が自分の不在中の摂政に据えることを考え、1713年11月2日に初めて国務会議に出席した。1710年にヘッセン=カッセル方伯世子フリードリヒの求婚を受け、腹心エメレンティア・フォン・ドゥーベンが交渉を担い、1714年に婚約し、1715年3月24日に結婚した。祖母は、孫娘がヘッセンへ去れば姉の子が後継者になりやすいと見て賛成した。結婚式で兄は「今夜、妹は王冠を踊り捨てている」と語ったという。夫は王位を狙っており、彼女を甥に代わる後継者に立てようとし、ヘッセン派とホルシュタイン派の王位争いが生じた。

1718年、大北方戦争のさなかに兄カール12世が戦死した。父が確立した絶対王政の権限を放棄すると約束して議会に承認され、女王に即位した。順当には、亡き姉の子ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒに継承権があったが、クリスティーナ女王の先例を挙げ、血縁の近さを主張した。講和交渉の中心はホルシュタイン派で、側近ゲルツ男爵が逮捕されて処刑され、ヘッセン派が実権を握った。ヘッセン派は戦闘を続けつつ、ハノーファー=イギリスやブランデンブルク=プロイセンと講和し、正式な講和は、退位後にストックホルム条約として結ばれた。この結果、スウェーデンはホルシュタイン=ゴットルプ家への支援を打ち切り、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題から手を引いた。

元老院は絶対王政を否定し、1719年から1720年に議会は王権を大きく制限して議会に権力を集中させる新憲法を制定した。女王はこれに不満を抱き、わずか2年で退位した。後継者は議会との取り決めで夫に決まっており、夫は1720年にフレドリク1世として即位し、ヘッセン王朝が始まった。彼女は以後は王妃として過ごし、1741年11月24日に夫に先立って没した。二人に子はなかった。兄に顔立ちがよく似ており、人々は彼女に兄の面影を見たと伝わる。

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