伝記
テオドリックは、454年に生まれ、526年8月30日に没した東ゴート国王である。東ローマ帝国の軍人・政治家でもあり、484年には執政官を務めた。ローマ帝国の副帝として西半分を統治し、497年にはイタリア王の称号を認められて、東ゴート王国を成立させた。しばしば「大王」と呼ばれる。ゴート人の有力者ティウディミールの子として生まれ、461年ごろに人質としてコンスタンティノープルの宮廷へ送られ、実質的な支配者だったアラン人の将軍アスパルのもとで教育を受けた。
469年にパンノニアのゴート王の一人ウァラメールが死ぬと、皇帝レオ1世は、彼をその代わりとしてスラヴォニアの守備隊へ配した。彼は470年にサルマタイ人との戦いに勝ち、従士6000人から王として推戴された。474年頃、父が没すると、その戦士の多くが彼の従士団に合流したと考えられている。この時期の東方は、同名のゴート人有力者テオドリック・ストラボとの競合に揺れた。彼は初め皇帝側についたが、478年にゼノン帝の命で討伐に出た際、援軍が届かないまま説得されて相手の陣営に降った。481年にストラボが事故死すると、ゼノンと和解して483年に軍司令官へ復帰し、484年に執政官へ昇り、485年には養子として迎えられ、「フラウィウス」の名を与えられた。
しかし、ゼノンとの関係は良好ばかりではなかった。484年のイサウリア人の反乱の際、ゼノンは裏切りを警戒して彼を宮廷に留め置き、軍の指揮権を別の将軍に与えたため、彼は深く傷ついた。イサウリア人の将軍に軍司令官の地位が約束されると、ついに我慢の限界に達し、486年にトラキアを荒らし、487年にコンスタンティノープルを攻囲した。ゼノンは和解を申し入れ、彼を副帝として西方の統治を委ねる代わりに、イタリアの領主オドアケルの討伐を求めた。488年、彼はわずかな同意者とイタリアへ向かった。この遠征のために組織された集団が、のちに東ゴート人と呼ばれる。ゴート人を中心にしながら、ローマ人なども含む混成集団だった。
489年にイタリアへ侵入してオドアケルの軍にたびたび勝ち、490年にはラヴェンナへ追い詰めた。493年、交渉でオドアケルを降伏させたが、和解の酒宴でオドアケルを殺し、その一族も皆殺しにした。497年には、アナスタシウス1世から「栄光この上ない王」の称号を公認された。ただし、東ゴート王国は、ローマ帝国と別の国が生まれたことを意味せず、ゴート人が就ける公職は軍官に限られ、民政は従来どおり西ローマ帝国政府が担った。500年にはローマで在位30周年の式典を開いたが、祝われたのは470年の推戴だった。彼は、王権を皇帝から与えられたものでも父から継いだものでもなく、自らの戦勝によって得たものとみなしていたのである。
統治は穏健だった。自身はアリウス派だったが、カトリック教徒にも寛容で、教会の内部事情に干渉しなかった。ラヴェンナを本拠としつつローマへの敬意も忘れず、城壁や水道橋、ポンペイウス劇場などを修復し、ローマの人口は40万人ほどまで回復したという。しかし523年ごろから状況が悪化する。東ローマでユスティヌス1世がアリウス派の迫害を始め、彼は疑い深くなり、重用したボエティウスに謀反の嫌疑がかかって、523年に投獄され、524年に処刑された。525年、彼は迫害をやめさせようと、教皇ヨハネス1世をコンスタンティノープルへ派遣した。彼自身は526年8月30日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- クィントゥス・アウレリウス・シュンマクス (526年(推定))
- ヨハネス1世 (ローマ教皇) (526年没)
- Galan Erilich (526年)
- アマラフリーダ (526年)
同じ地域に関係する人物
- ムーツィオ・アッテンドロ (1424年没)
- ガストン・ド・フォワ (ヌムール公) (1512年没)
- アルフレード・オリアーニ (1909年没)
- フラウィウス・フェリックス (430年没)
- ロザムンダ (573年没)