HISTORICAL PERSON · 1740年没

カール6世 (神聖ローマ皇帝)

神聖ローマ皇帝でハンガリー・ボヘミア国王も兼ねた。スペイン継承戦争でスペイン王位を主張して戦ったが、兄の急逝で皇帝となった。1713年に国事詔書を布告し、長女マリア・テレジアに家領を継がせようとした。

生涯
1740年没
死亡地
オーストリア共和国(ウィーン)
出生地
オーストリア共和国(ウィーン)
出典
世界地図
オーストリア共和国(ウィーン)

伝記

カール6世は、1711年から1740年まで在位した神聖ローマ皇帝である。1685年10月1日に生まれ、1740年10月20日に没した。ハンガリー王とボヘミア王も兼ね、ハプスブルク家の最後の男系男子にあたる。レオポルト1世と皇后エレオノーレ・マグダレーネの次男で、ヨーゼフ1世の弟、マリア・テレジアの父である。

従兄のスペイン王カルロス2世は生まれつき病弱で子がなく、スペイン・ハプスブルク家の断絶は確実視されていた。一度は英仏の合意で、カールの異母姉の子ヨーゼフ・フェルディナントを後継者とする分割条約が結ばれたが、ヨーゼフが6歳で夭折し、王位継承問題が再び表面化した。1700年にカルロス2世が没すると、父レオポルト1世はカールを後継者として送ろうとしたが、カルロスは生前、ルイ14世の孫アンジュー公フィリップを推薦していた。ルイ14世が各国との対立を深めたため、1701年には対フランス大同盟が結ばれ、カールは対仏・西の旗印としてスペイン継承戦争を戦うこととなった。

カールは1703年に同盟国ポルトガルへ渡り、1704年9月にカタルーニャに上陸し、住民から想定外の歓迎を受けた。1705年にイングランドの将軍ピーターバラ伯がバルセロナを占領すると同地に入り、カルロス3世を称して、マドリードのフェリペ5世と対峙した。1706年にはバルセロナを守り抜いたが、1707年にアルマンサの戦いで同盟軍が大敗すると劣勢となった。1708年にはエリーザベト・クリスティーネとバルセロナで婚礼を挙げた。

1711年、兄ヨーゼフ1世が男子のないまま急死し、ドイツへ戻ったカールが帝位を継いだ。もしスペイン王位も継げば、かつてのカール5世のような強大な君主が現れて勢力均衡が崩れるため、1713年にユトレヒト条約が結ばれ、フェリペ5世の即位が認められた。カールはスペイン王位を断念し、1714年にラシュタット条約を結んだ。バルセロナは同年に陥落した。

皇帝即位後は、ハンガリーの叛乱を終息させ、南ネーデルラントからミラノ公国まで勢力を広げた。墺土戦争ではプリンツ・オイゲンを送って勝利し、1718年のパッサロヴィッツ条約でオスマン帝国からベオグラードを奪った。東西への領土拡張により、ハプスブルク君主国史上最大の版図を築いた。重商主義政策もとり、貿易会社を設立させたが、財政は厳しく、傭兵軍の維持が困難であった。

問題は後継者であった。男系の後継者がおらず、宮廷は「女の宮廷」とまで言われた。1713年に国事詔書を布告し、領土の分割禁止と男系長子相続を決めた。皇后との間に子ができず、あらゆる治療を試みたが、1716年に生まれた唯一の男児レオポルトは1歳に満たず夭折し、翌1717年に生まれた長女マリア・テレジアを後継者とするほかなくなった。1720年には領邦に承認を迫り、1722年にはハンガリーも承認して、家領内の承認をそろえた。その後は諸国の承認を得るため外交的な譲歩を重ねた。1738年のウィーン条約では、ロレーヌ公国をフランスへ割譲し、イタリアの所領の多くを手放した。ロレーヌ公フランツ・シュテファンがマリア・テレジアと結婚できるよう、この不利な条約を受け入れたのである。二人は1736年に結婚した。

1737年にはオスマン帝国との戦争に敗れてベオグラードを奪還され、領土は縮小した。1740年、狩猟の最中に突然腹痛を訴え、闘病の末に56歳で没した。国事詔書に従ってマリア・テレジアが家督を継いだが、バイエルン選帝侯らが承認せず、オーストリア継承戦争が勃発した。

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