伝記
アンナ・イヴァノヴナは、ロマノフ朝第4代のロシア皇帝で、1730年から1740年まで在位した。1693年2月7日(ユリウス暦では1月28日)に生まれ、1740年10月28日(ユリウス暦では10月17日)に没した。ピョートル1世の兄で共同統治者だったイヴァン5世と、その妃プラスコヴィヤ・サルトゥイコヴァの四女である。ピョートル大帝の事業の延長上で、サンクトペテルブルクの大規模な建設や科学アカデミーへの出資を進め、貴族を優遇する施策を行ったが、ロシア国内では「暗黒の時代」と呼ばれることが多い。
モスクワに生まれ、1696年2月にイヴァン5世が亡くなったときはまだ3歳で、ピョートルがひとりで国を治めることになった。娘たちは未亡人となった母に厳しく慎ましく育てられた。成長すると強情で意地の悪いところを見せ、「恐るべきイヴァンナ」というあだ名をつけられたという。のち叔父ピョートルの命で一家はペテルブルクに移り、宮廷の華やかさを大いに楽しむようになった。
1710年、ピョートルの取り決めで、クールラント公フリードリヒ・ヴィルヘルムと結婚した。結婚式は11月に盛大に行われた。しかし新婚の一行がクールラントへ向かう途中、1711年1月21日に公は急死した。アンナはそのまま公国の主権者となり、首都ミタウ(現在のイェルガヴァ)に移って、約二十年のあいだ公国を治めた。再婚することはなかったが、寵臣ビロンとの関係がうわさされた。
1730年にピョートル2世が子のないまま亡くなると、ロマノフ家の男系が絶えた。有力な候補はイヴァン5世の三人の娘とピョートル大帝の娘エリザヴェータであったが、実権を握る最高枢密院の保守的な大貴族は、ピョートル1世の直系を嫌い、姪にあたるアンナを選んだ。枢密院の面々は、彼女を傀儡にしようと、君主権を大幅に制約する「条件」をのませようとした。しかしアンナはモスクワに着くと、一般貴族の支持を受けて誓約書を破棄し、最高枢密院を廃止に追い込んで、皇帝の専制政治を復活させた。政体を立憲君主制や貴族寡頭制に移そうという試みは、これで消えた。
当時のロシアの貴族女性の多くと同じく、アンナは十分な教育を受けておらず、国政に関心を示さなかった。そこでビロンやオステルマン、ミュンニヒ元帥に政治を任せた。彼らはみなドイツ語圏の出身だったため、ドイツ人が牛耳る政府だと反感を買った。しかしビロンを除く二人はピョートル1世に招かれた外国人から出世した人物で、三人は互いに対立してもいたから、ドイツ人による支配という評価は当たらないようである。外交では親オーストリアの政策を引き継いだ。1735年からオスマン帝国と戦ったが、神聖ローマ皇帝カール6世の干渉を受け、アゾフを除く占領地から撤退した。これはロシアの中央アジア進出の第一歩となり、1740年にはカザフ族に宗主権を認めさせた。内政では1732年にペテルブルクに再遷都し、陸軍幼年学校を創設したが、治世は凶作や疫病が続き、税の取り立ても厳しかった。
晩年は、軍隊の支持を受けるピョートル大帝の娘エリザヴェータに帝位を奪われることを恐れた。1740年8月に姪が長男イヴァンを産むと、ただちに後継者に選び、エリザヴェータにも忠誠を誓わせた。同年10月、腎臓の潰瘍のために亡くなった。後継のイヴァン6世はのちにエリザヴェータに廃位され、父イヴァン5世の直系に帝位を伝えるというアンナの望みは崩れた。1739年の厳冬には凍ったネヴァ川の上に氷の宮殿を築いたが、崩御の翌年に溶けたという。
同じ年に亡くなった人物
- ルイ4世アンリ (コンデ公) (1740年没)
- Amalia Wilhelmina Konigsmarck (1740年没)
- バージー・ラーオ (1740年没)
- Grace Sherwood (1740年)
- ヴィンツェント・リューベック (1740年没)
同じ地域に関係する人物
- ニコライ・ドゥボフスコイ (1918年没)
- Gustav Heinrich von Bongard (1839年没)
- ヤコプ・フルト (1907年没)
- ドメニコ・トレジーニ (1734年没)
- アレクサンドラ・アレクサンドロヴナ (1849年没)