HISTORICAL PERSON · 520年代没

ボエティウス

古代ローマ末期の哲学者・政治家。東ゴート王テオドリックに仕えて執政官となったが、反逆の嫌疑で投獄され処刑された。獄中で『哲学の慰め』を著し、アリストテレスの論理学を翻訳して中世の研究の端緒を開いた。

生涯
520年代没
死亡地
イタリア共和国(パヴィーア県 / パヴィーア)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(パヴィーア県)

伝記

ボエティウスは、480年頃にローマで生まれ、524年か525年に没した、古代ローマ末期の哲学者、政治家である。正式な名はアニキウス・マンリウス・トルクアトゥス・セウェリヌス・ボエティウスという。西ローマ最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスが退位させられてから数年後に生まれ、生年は確かでない。生家アニキウス家は、皇帝ペトロニウス・マクシムスやオリブリウスのほか多くの執政官を出した富裕な名門だったが、彼の生まれる前の数年間に勢いを失っていた。祖父は同名の元老院議員で、454年にアエティウス暗殺の宮廷の陰謀の際に亡くなり、父マンリウス・ボエティウスは487年に執政官となったが、ボエティウスが幼いうちに世を去った。孤児となった彼は、のちに執政官となる貴族シュンマクスに引き取られ、育てられた。

養父の家で家庭教師に学び、ラテン語とギリシア語の双方を身につけた。西方では珍しくなっていたギリシア語の習熟から、東方で学んだとする見方があり、古くは18年間アテナイで学んだとする説も唱えられたが、これは史料の読み違いだった可能性が高いとされる。アレクサンドリアで新プラトン主義者アンモニオスに学んだという説もあるが、遠出せずに学識を得られたと見る研究者もいる。恩人の娘ルスティキアナと結婚し、同名のシュンマクスとボエティウスという2人の息子をもうけた。仕官前は、水晶と象牙で飾られた書斎で研究に打ち込んだと伝えられる。

プラトンの『国家』に触発され、研究生活を離れて、東ゴート王テオドリックに仕えた。二人は、王が半年ほどローマに滞在した500年に出会ったとされる。貨幣の品位を落とした疑いのある近衛兵の給与係の調査など、王のための仕事を重ねて頭角を現し、25歳で元老院議員、510年には執政官となった。522年には2人の息子も執政官となるほど王の信任を得ていた。しかし宮廷の腐敗を非難して他の廷臣から疎まれるようになり、執政官経験者アルビヌスが謀反の疑いをかけられた際にこれを公に擁護して、523年ごろ王によりパヴィアに投獄された。のちに拷問を受けたうえ、処刑されたという。

獄中では、運命や死を論じる散文と韻文まじりの著作『哲学の慰め』を書き、古代哲学に慰めを求めた。この書は中世初期で最も広く読まれ、書き写された作品の一つとなった。ほかに、アリストテレスの論理学書のラテン語訳と注解があり、ニコマコス、エウクレイデス、アルキメデス、プトレマイオスらの著作も訳出して、ギリシアの哲学と科学を中世に紹介した。また『三位一体論』などの神学論文、そして全5巻の『音楽綱要』がある。『音楽綱要』は、音楽を世界の調和、人間の調和、楽器や声で実際に鳴る音楽に分け、古代ギリシアの音楽論を中世ヨーロッパに伝えた。彼はプラトンとアリストテレスの教えを調和させ、ギリシアの古典の全体を西方の学者のためにラテン語に訳そうとしたが、早すぎる死により訳業は未完に終わった。それでも、アリストテレスの著作がルネサンスまで伝わったのは、その翻訳に負うところが大きいとされる。アリウス派の王に殺されたため、中世には教父に準じる扱いを受け、「最初のスコラ哲学者」と評されることもある。パヴィア教区での崇敬は1883年に認められ、10月23日が祝日である。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物