伝記
ルキウス・コルニフィキウスは、共和政末期のローマでオクタウィアヌスに仕えた軍人、政治家である。騎士階級の出身で、氏族はレギウムに由来するとされる。コルヌフィキウスという名の形も知られる。父もルキウスを名乗り、紀元前五二年にティトゥス・アンニウス・ミロを告発した人物だった可能性がある。コルニフィキウス自身は、カエサルが暗殺された後の紀元前四四年秋から、オクタウィアヌスの周辺にいたと考えられる。若いオクタウィアヌスがカンパニアの退役軍人へ支援を求めようと友人に相談した際、アグリッパ、サルウィディエヌス・ルフスとともにいたルキウスという人物が、コルニフィキウスと推定されている。支援を求める相手は第七、第八両軍団の退役兵であり、両軍団は後にそれぞれパルテナ、アウグスタと呼ばれた。のちにコルニフィキウスは、オクタウィアヌスの側近の中で執政官になった二人のうちの一人に数えられた。
紀元前四三年、護民官としてカエサル暗殺者を裁く訴訟に関わり、マルクス・ユニウス・ブルトゥスへの告発を担当した。ペディウス法に基づく裁判は、ローマを押さえたオクタウィアヌスの監督下で進められた。陪審員は威圧を受けて有罪を支持し、ただ一人無罪を主張した者は追放されたと伝えられる。告発を成功させたコルニフィキウスはカエサル派で人気を得、ブルトゥスの財産の没収によって富も得た。紀元前三八年には海軍を指揮し、ラウェンナからタレントゥムへ新編の艦隊を回して、オクタウィアヌスへ引き渡した。その後、シキリアを拠点とするセクストゥス・ポンペイウスとの戦争に参加した。メッシーナ海峡で連合艦隊は奇襲を受けて損害を出したが、コルニフィキウスは反撃し、敵将デモカレスの旗艦を奪った。
戦争は長引き、紀元前三六年、オクタウィアヌスはタウロメニウム沖の海戦に臨む際、陸に残した三個軍団をコルニフィキウスに委ねた。ところが艦隊が敗れたため、陸軍は物資もないまま孤立した。コルニフィキウスは当初敵との戦闘を試みたが、最終的には困難な状況で北西へ行軍し、ミュラエにいたアグリッパの軍と合流することに成功した。この脱出と兵の救出に対し、ローマ市内で騎乗できる特別の名誉を与えられた。さらに翌三五年には執政官となった。同僚のセクストゥス・ポンペイウスは、先に戦った反乱軍の指導者とは別人である。両執政官は任期の途中で退き、プブリウス・コルネリウス・ドラッベラとティトゥス・ペドゥカエヌスが後を補った。
執政官の後、コルニフィキウスはアフリカ属州総督を務めた。任期は紀元前三二年までとされ、同年十二月三日にはローマで凱旋式を行った。都市の美化に私財を投じた将軍の一人でもあり、アウェンティヌスの丘のディアーナ神殿を再建した。また、シキリアで兵たちを救った自分には特別な権利があると考え、外で夕食を取るたびに象に乗って帰宅したという逸話も伝わる。修辞学書『ヘレンニウスに与える弁論術』をその作とする説があるが、若いクィントゥス・コルニフィキウス、あるいは同族の別人の作とも考えられ、著者は確定していない。生没年は不明であり、凱旋や神殿の事業より後の詳しい足跡は分かっていない。
同じ年に亡くなった人物
- ロドスのアンドロニコス (紀元前 60年(推定))
- アレタス4世 (紀元前60)
- グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス (紀元前 60年(推定))
- クィントゥス・マルキウス・レクス (紀元前68年の執政官) (紀元前 60年)
- プブリウス・アルフェヌス・ウァルス (紀元前 60年(推定))
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