伝記
神武天皇は、日本の初代天皇とされる人物である。『古事記』と『日本書紀』に記される神話・伝説上の人物とされることが多い。諱は彦火火出見、あるいは狭野といい、『日本書紀』では神日本磐余彦天皇と記される。天照大御神の五世孫で、瓊瓊杵尊の曽孫にあたり、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命と玉依姫の子である。母の玉依姫は海神の娘とされる。兄に五瀬命、稲飯命、三毛入野命がおり、稲飯命は新羅王の祖ともいわれる。『日本書紀』によれば、庚午年に筑紫の日向で生まれ、生まれながらにして明達で強い意志を持っていたという。15歳で太子となり、日向国吾田邑の吾平津媛を妃として、息子の手研耳命を得た。
45歳のとき、兄の五瀬命、稲飯命、三毛入野命や諸臣を集めて東征を提案した。塩土老翁が語った東方の美しい地、すなわち大和国を都にふさわしい場所と考えたのである。10月に水軍を率いて出発し、速吸の門で国神の珍彦を舟に引き入れて水先案内とし、これに椎根津彦の名を与えた。宇佐や安芸を経て吉備に着くと、三年間軍兵を整えた。戊午年に難波から河内へ入り、大和を支配する長髄彦と孔舎衛坂で戦ったが、利なく、五瀬命が流れ矢に当たって負傷した。日の神の子孫が日に向かって戦うのは天の意思に逆らうことだと悟り、軍を退いて海路を南へ向かった。
五瀬命は傷が悪化して茅渟で亡くなった。熊野の沖で海が大嵐となると、稲飯命と三毛入野命は「私の母は海神である」と言って自ら海に入り、嵐は静まったという。熊野に上陸すると、土地の神の毒気で軍衆が倒れたが、熊野高倉下が天神から授かった神剣韴霊を奉り、剣の霊力で起き上がることができた。道に迷うと、天照大神が夢に現れて八咫烏を遣わし、その案内で菟田下県に行き着いた。兄猾を討って弟猾を従え、丹生の川上で天神地祇を祀り、さらに八十梟帥や兄磯城を討った。12月、長髄彦との決戦で勝てずにいたところ、金色の霊鵄が弓先に止まって光を放ち、長髄彦の軍は目がくらんで降参したという。長髄彦はなお従わず、主君の饒速日尊に誅殺された。
己未年に土蜘蛛を討ち、3月に中洲の平定が終わったとして畝傍山のほとりに全軍を招集し、奠都の詔を宣言した。そして畝傍山の東南の橿原の地に宮殿を造らせた。この地が現在の橿原神宮の伝承地である。庚申年に事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とし、辛酉年1月1日に橿原宮で即位して初代天皇となった。この即位日は西暦では紀元前660年2月11日と計算され、現在の「建国記念の日」にあたる。即位2年には功のあった人々を賞し、珍彦を倭国造に、弟猾を猛田県主に、弟磯城を磯城県主に任じた。即位4年には天下の平定を終えたと詔し、鳥見山中に皇祖天神を祀った。即位31年には腋上の丘に登り、その地を秋津洲と命名した。
神武天皇76年3月11日、橿原宮で崩御した。年齢は127歳、『古事記』では137歳とされる。翌年9月12日に畝傍山東北陵に葬られた。崩御ののち、長子の手研耳命が皇太子の神渟名川耳尊に対して反逆を起こし、殺害されたという。皇后との間には神渟名川耳尊をもうけ、後の綏靖天皇となった。なお、漢風諡号の「神武」は、8世紀後半に淡海三船が撰進したとされる。明治時代には橿原宮の跡と推定される地に橿原神社が創建され、明治23年に神宮号が宣下された。明治21年に奈良県の県会議員が宮跡の保存を建言したことが、その発端であった。