HISTORICAL PERSON · 紀元前 390年没

墨子

中国戦国時代の墨家の開祖。平和主義と博愛を説き、科学技術史の先駆者ともされる。素性には謎が多く、出身地や姓にも諸説がある。

生涯
紀元前 390年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

墨子は、中国の戦国時代に活動した諸子百家の一つ、墨家の開祖である墨翟の尊称で、その人物に仮託された書物の題名でもある。生没年は紀元前470年ごろから紀元前390年ごろとされる。平和主義と博愛主義を説き、中国の科学技術史の先駆者にも位置づけられる。

素性には謎が多い。「墨」が姓なのかについても諸説あり、綽名で姓は不明とも、「墨」は氏で姓は別にあるともいわれる。出身地も魯・宋・楚など諸説あり、中華民国初期にはインド人説まで唱えられた。「墨」の字から、墨を頻繁に扱う工匠や土木業者だった、入れ墨を施された罪人だった、あるいは褐色の肌だったなどの推測もある。司馬遷の『史記』孟子荀卿列伝は、おそらく宋の高官であろうと推測の形で記しており、前漢の時代からすでに謎多き人物だったようである。

墨翟は当初儒学を学んだが、儒学の仁の思想は差別的な愛だとして満足せず、無差別の愛を説く独自の思想を切り拓き、一つの学派を築くに至った。ただ、その平和主義は軍拡に躍起になっていた諸侯とは相容れず、敬遠されがちだった。逸話として『墨子』公輸篇の説話がある。楚の王は、名工の公輸盤が開発した攻城用のはしご、雲梯を使って宋を併呑しようとした。聞きつけた墨翟は急いで楚に赴き、攻めないよう迫った。困った楚王は、公輸盤と机上で模擬攻城戦を行い、墨翟が守りきれば宋攻めは白紙にしようと提案した。結果は墨翟が攻撃をことごとく退け、手駒にもまだ余裕があった。面子を潰された公輸盤が「さらなる秘策があるが言わない」と意味深に口にすると、墨翟は、私を殺す気だろうが、秘策を授けた弟子300人をすでに宋に送ってあるので、私が殺されても宋は守られると答えた。楚王は感嘆し、宋を攻めないと誓った。ところが墨翟は、帰り道に宋の城門の軒先で雨宿りをしていて、乞食と間違えられて城兵に追い払われたという。

墨翟の死後、墨家は一大勢力となったが、最終的に秦による統一までに消滅した。『墨子』は名目上の著者は墨翟だが、実際は弟子たちが学派の思想の変遷や派閥の対立を経ながら、徐々に作ったものである。全53篇が現存するが、本来はもっとあったと推定される。主要な思想は「十論」と呼ばれ、兼愛・非攻・尚賢・尚同・節用・節葬・非命・非楽・天志・明鬼から成る。兼愛は万人を差別なく愛せよという教えで、儒家の愛は家族や長にだけ向けた偏愛だと退けた。非攻は侵略戦争を否定するが、防衛のための戦争は否定しない。墨家は工学技術と人間観察の両面から守城の技術を磨き、攻められた城の防衛に自ら参加して成果を挙げた。「一人を殺せば死刑なのに、なぜ百万人を殺した将軍が勲章をもらうのか」とも問うている。尚賢は貴賎を問わず有能な者を登用することで、「官に常貴無く、民に終賤無し」と主張した。節用と節葬は無駄をなくす倹約の教え、非命は人々を無気力にする宿命論の否定である。論の展開は比喩や反復が多く、一般民衆に理解されやすかった。

秦漢から明末まで、『墨子』が顧みられることはほとんどなかった。清朝の考証学者による校訂で再評価され、畢沅は注釈書を著した。民国初期には、墨弁の論理学や科学的内容が評価された。1934年に魯迅は公輸篇の説話をもとに短編小説を著した。日本では江戸時代に唐本が輸入され、1757年に和刻本が刊行された。1991年には酒見賢一が墨家を題材にした小説『墨攻』を著し、2006年に映画化された。2016年に中国が打ち上げた世界初の量子科学実験衛星は「墨子号」と呼ばれている。

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