伝記
リュシッポスは、紀元前4世紀の古代ギリシアの彫刻家である。リュシッポス、スコパス、プラクシテレスは、ギリシアの古典時代からヘレニズム時代への移行をもたらした三大彫刻家と呼ばれる。当時の世評では、高名な彫刻家ポリュクレイトスの後継者とされていた。紀元前390年頃にシキュオンで生まれ、没年は前318年頃とも前299年ともされる。
若い頃はブロンズ細工師として働き、彫刻は独学で身につけたという。のちにはアルゴスやシキュオンで学校の長になった。活動の場はシキュオンのほか、オリンピア、コリントス、ロドス、デルポイ、アテナイ、ローマ、タラスに及んだとされる。大プリニウスによれば、作品は1,500点以上で、すべてブロンズだった。とくにオリンピアの競技の勝者となった競技者の像が多く、大理石やブロンズの四頭立て馬車も数多く作ったと伝わる。最晩年にはタラスに、高さ約17メートルのゼウス像を建てたともいう。ロードス島の巨像を作ったリンドスのカレスは、リュシッポスの弟子だった。
作風について大プリニウスは、優雅さと、人物のシンメトリア、つまり釣り合いのとれたバランスを特筆している。ポリュクレイトスの規範よりも小さな頭を持たせたため、人物がとても背高く見えたという。まぶたや足の爪へのこだわりでも知られた。ポリュクレイトスが定めた1対7の比例を改め、七頭身半に引き上げたともいわれる。また、外見を写すだけでなく心理や感情まで感じさせる、個人の顔つきをとらえた肖像の流れを作ったとされ、プラクシテレスの優美さとスコパスの情念を総合したものとも評される。360度のあらゆる方向から見られることを考えて像を作る可能性にいち早く気づいたとも伝えられる。
リュシッポスはアレクサンドロス大王の個人的な彫刻家でもあった。近年見つかった『ミラノ・パピルス』の詞華集には、ポセイディッポスのエピグラムがあり、アレクサンドロスのブロンズ像に触発されて書かれた。両眼に炎のような眼差しを宿した像を作ったシキュオンの彫刻家をたたえ、ペルシア人が非難されるいわれはないとうたう。乱れた髪、開いた唇、上を向いた啓示を受けた神のような大王の像を作ったと信じられている。その好例はティヴォリで見つかったローマ帝政期の複製で、現在はルーヴル美術館にある。
リュシッポスの原作は一つも現存せず、残るのはローマ時代の複製だけである。そのため研究者は、大きな仕事場、生前から高かった複製の需要、後世のヘレニズム期やローマの鑑定、多くの直弟子といった事柄を合わせて、その手法を論じている。作品とされるものには、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の馬、弓を張るエロス、デルポイで見つかった『アギアス』、『油そそぎ』、ナポリにある『ファルネーゼのヘラクレス』、バチカン美術館の複製で知られる『アポクシュオメノス』(拭う者)がある。弓を張るエロスの複製では大英博物館のものが最も有名で、『アギアス』はデルポイで見つかった大理石の複製が知られる。『油そそぎ』はドレスデンとミュンヘンにあり、『ファルネーゼのヘラクレス』の原作はカラカラ浴場にあったという。アグリッパの浴場は、『アポクシュオメノス』と横たわる獅子というリュシッポスの二つの像で飾られていた。『アポクシュオメノス』は競技後に体の砂や油を掻き取る若い競技者を表し、最も重要な作とされ、原作はブロンズだった。
同じ年に亡くなった人物
- ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥス (紀元前299年の執政官) (紀元前299年没)
- Aristaeus the Elder (紀元前299)
- アリストクセノス (紀元前 299年)
- デイダメイア (紀元前299)
- ルキウス・ウォルムニウス・フランマ・ウィオレンス (紀元前 299年(推定))
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