HISTORICAL PERSON · 579年没

アブドゥルムッタリブ・イブン・ハーシム

預言者ムハンマドの父方の祖父。息子アブドゥッラーの死後にムハンマドを引き取って育て、ザムザムの井戸を掘り、アビシニアのメッカ侵攻時に敵将と交渉した。

生涯
579年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

アブドゥルムッタリブ・イブン・ハーシムは、イスラームの創唱者である預言者ムハンマドの父方の祖父である。息子のアブドゥッラーの死後、遺児のムハンマドを引き取って養育した人物として知られ、ザムザムの井戸を掘ったことや、アビシニアのメッカ侵攻の際に敵の将軍と交渉したことで語り継がれる。ただし、伝えられる逸話には、彼を称揚しようとする偏りも認められる。

生まれはヤスリブ、のちのメディナである。伝承によれば、父ハーシム・イブン・アブドマナーフがメッカからシリアへ向かう隊商貿易の途中でヤスリブに逗留し、ハズラジ大部族に属するナッジャール系の女性と結婚して、シャイバとルカイヤの二人の子を得た。このシャイバが、のちのアブドゥルムッタリブの別名である。名は「白髪」を意味する。7、8歳になるまで母のもとで育てられたが、モンゴメリー・ワットは、これが当時の母系制社会の慣習に従ったものだと述べている。父ハーシムが隊商貿易の途中、ガザで亡くなると、ハーシムの弟ムッタリブがヤスリブに来て甥を引き取り、メッカへ連れて行った。優秀な甥に商売を仕込み、ハーシムの死で低下しつつあったメッカでのアブドマナーフ家の地位を高めようとの意図があったといわれる。若いシャイバがムッタリブの奴隷(アブド)と誤解されたため「アブドゥルムッタリブ」と呼ばれるようになったという説はよく知られるが、ワットは学術的には受け入れられないとし、何らかの宗教的な意味を持つ名だっただろうと考えている。

成年後の政治的な重みについては意見が分かれる。イスラーム教徒の側の文献は、おおむねその重要性を高く評価し、しばしば彼を「クライシュ族の長」と呼ぶ。西欧の東洋学者はこれに疑問を呈する。当時のメッカには、アブドマナーフ、アサド、ズフラ、タイム、ハーリス・イブン・フィフルの各氏族からなる同盟があったが、アブドマナーフ氏族のナウファル家とアブドシャムス家はそこから脱退していた。アブドゥルムッタリブはその脱退した集団の指導者だったと伝えられ、したがって「クライシュ族の中の一部の政治的集団の長」とみるのが妥当だとされる。彼はメッカ近郊に定住する諸部族と同盟を結び、ターイフには井戸を所有した。シリアやイエメンをつなぐ長距離貿易で富を蓄え、巡礼者に水と食事を提供する特権を父ハーシムから受け継いだ。各地で井戸も掘り、なかでもカアバ近くのザムザムの井戸が有名である。伝承では、長く忘れられていたこの井戸を彼が息子のハーリスとともに掘り起こしたとされる。

西暦570年ごろの「象の年」には、アビシニアの軍がメッカに迫り、彼は敵の将軍と交渉した。ワットは、これをクライシュ族全体の代表としてではなく、ある政治集団の指導者としての行動だとみる。他の集団を出し抜く狙いもあったかもしれないという。アビシニア軍の撤退から50日後に孫のムハンマドが生まれたと伝説は語る。息子のアブドゥッラーがその少し前に亡くなったため、彼は遺児のムハンマドと寡婦のアーミナを引き取って養育したといわれる。一方、ムハンマドの母アーミナが亡くなったとき、6歳ほどの孫の後見を引き受け、死に際にはその世話をアブー・ターリブに託したとも伝えられる。

イブン・ヒシャームやイブン・サアドによれば、彼には多くの息子がおり、アブドゥッラー、アブー・ターリブ、ハムザ、アッバース、アブー・ラハブらがいる。子孫からはハーシム家のさまざまな系統が分かれた。ムハンマドが8歳のときに亡くなり、没年は579年とされる。死去時の年齢は82歳、110歳、120歳とも伝わる。

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