伝記
鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)は、亀茲国(現在の新疆ウイグル自治区クチャ付近)出身の西域僧で、後秦の時代に長安で多くの仏典を漢訳した訳経僧である。生没年は344年から413年とされ、350年から409年とする説もある。最初の三蔵法師とされ、のちの玄奘とともに二大訳聖と呼ばれ、真諦、不空金剛を含めて四大訳経家にも数えられる。三論宗と成実宗の基礎を築いた人物でもある。
父は、インドの名門貴族の出で、カシミール生まれとも、カシミールかガンダーラの出ともいわれる僧の鳩摩羅炎(クマーラヤーナ)である。仏教を伝えようと中国へ向かう途中で亀茲に立ち寄り、その思想に感銘を受けた王から妹の耆婆(ジーヴァー)との結婚を勧められた。耆婆は王族で、熱心な仏教徒だった。二人が結ばれて亀茲に住み、父は王の司祭となり、そこに羅什が生まれた。7歳のとき、母は亀茲北方の尼僧院に入ったとされ、日本の年譜では356年に母とともに出家したとする。9歳ごろから北インドやカシミール、亀茲の師のもとで阿含経と説一切有部の阿毘達磨を学んだ。カシュガルでは12歳で梵語の『転法輪経』を講じ、五明を学んだと伝わる。のちにカシュガルでカシミール出身の僧から大乗を学び、須利耶蘇摩と出会って大乗に転向したともされる。20歳ごろ(日本の年譜では369年)に具足戒を受け、中観派の論書を研究した。学問の広さと弁論の巧みさで、すでに名の知られた僧となっていた。
379年、中国の僧が亀茲を訪れ、羅什の才能を伝えた。前秦の苻堅は将軍の呂光に軍を与え、亀茲を攻め、羅什を連れ帰るよう命じたという。しかし苻堅の本隊が敗れると、呂光は独立して涼州で後涼を興した。羅什は384年ごろ、あるいは386年に、40歳ほどで呂光に捕らえられたとされる。仏教徒でなかった呂光は羅什を戦利品のように長く扱い、羅什は軍師のような立場で呂光をしばしば助けた。以後約18年を涼州で過ごし、この間に中国語に通じたと考えられる。この時期、呂光に強いられて亀茲王の娘と結婚し、戒を捨てたとも伝えられる。
後秦の姚興は、呂氏に羅什の引き渡しをたびたび求めたが応じられず、軍を涼州に送って呂氏を降し、401年に羅什は長安に迎えられた。姚興は羅什を師とも仰ぎ、「国師」の称号を与えた。402年から仏典の漢訳に従い、逍遥園で国の支援を受けた訳経の場を開いた。ここには千人を超える僧が集まり、日々の講義に出たという。僧叡が筆録を務め、道生、僧肇、慧観、僧叡の4人は四哲と呼ばれ、道融らを加えて十哲とも称される(書により異説がある)。廬山の慧遠との問答は『大乗大義章』3巻にまとめられた。十数年のうちに、約35部294巻の経典が訳されたとされる。日本の記述は約300巻とする。また、羅什亡き後の跡継ぎを望む姚興の意向で、僧院を出て十人の妓女を娶り、還俗して私邸に住んだといわれる。
訳した経典には『坐禅三昧経』『阿弥陀経』『摩訶般若波羅蜜経』『妙法蓮華経』『維摩経』『大智度論』『中論』などがある。訳文は四字句を多用し、リズミカルで流麗である。ただ逐語訳というより意訳で、大胆な創作や訳語の使い分けの疑いも指摘される。『妙法蓮華経』は天台宗で学ばれ、鎌倉仏教の源となった。臨終の前、訳した経典に誤りがなければ焼身ののちも舌は焼けないと語り、火葬すると舌だけが焼け残ったと『高僧伝』は伝える。