伝記
エウトロピウスは、4世紀のローマ帝国後期の政治家であり歴史家である。320年頃に生まれ、4世紀末ごろに没したとされるが、没年ははっきりしない。全10巻の簡潔な歴史書『首都創建以来の略史』(『ローマ史概説』とも呼ばれる)の著者として知られる。
その生涯は多くが不明で、同名の別人の事績が混ざっている可能性も指摘されている。確かなことの大半は、本人が著書の中で語った内容に由来する。写本では「クラリッシムス」「執政官級」と呼ばれており、国家の最高位に達した人物であったことは疑いない。出身地はボルドーともイタリアともいわれる。ボルドー説は、マルケッルス・エンピリクスが彼をアウソニウスと結びつけていることによる。一方、名前がギリシア風であることから東方の出身で、修辞学者カエサレアのアカキオスの甥だったとみる意見が最も一般的だという。
官僚としての経歴は、アンティオキアで背教者と呼ばれるユリアヌス帝と再会したところから語られる。熱心な支持者だった彼は、コンスタンティウス2世のもとで勅答局長として帝国の行政に加わった。361年のことである。363年にはユリアヌス帝のサーサーン朝ペルシア遠征に従軍し、自身もその春の遠征に加わったと述べている。その後、367年から369年にかけてキリキア総督を務めたとされ、369年にはウァレンス帝のもとで文書局長となった。『首都創建以来の略史』はこの頃にウァレンス帝に献呈されたもので、執筆時期は367年より前にも378年のウァレンス帝の死より後にもならないと考えられている。
371年にアシア属州総督となったが、翌年、テオドルスの陰謀に加わった嫌疑をフェストゥスにかけられて職を解かれた。のちに冤罪と分かって赦され、証拠不十分で無罪になったとも伝わる。アシアを離れてローマへ戻り、グラティアヌス帝の私財管理官を務めたとされる。異教徒の擁護者であった貴族シンマクスと手紙を交わし、著書にキリスト教徒に関する記述がほとんどないことから、異教の信仰をもっていたとみられている。380年から381年にかけてはテオドシウス1世のもとでイリュリクム道長官となり、387年にはウァレンティニアヌス2世帝とともに執政官に就いた。これは非常に名誉ある地位であった。没年は分かっていない。
『首都創建以来の略史』は、第1巻から第6巻までがおおよそ共和政期、第7巻以降が帝政期を扱う。第7巻はユリウス・クラウディウス朝とフラウィウス朝を述べてドミティアヌスの暗殺で終わり、第8巻から第10巻はその後継者たちを経て、364年のヨウィアヌス帝の死に至る。最終巻は著者自身の同時代史にあたる。共和政期はリウィウスの要約に、帝政期はスエトニウスなどに拠ったとみられる。文体は平易で簡潔、公平さに優れ、ラテン語は古典期のものではないが、長く教科書として読まれ、ラテン語の入門書としても広まった。ギリシア語訳は二度作られ、パイアニオスの訳はほぼ完全に伝わる。のちにパウルス・ディアコヌスがユスティニアヌス帝の時代まで続編を書いた。この版はさらに、1000年頃のロンゴバルド人の歴史家ランドルフス・サガクスによって増補され、『混成史』では813年から820年に在位した東ローマ皇帝レオン5世の時代まで延ばされた。最良の校訂版は1879年のドロイゼンのもので、ギリシア語訳と増補版を収めている。英語の校訂や翻訳も数多い。
同じ年に亡くなった人物
- Gregory of Elvira (400年(推定))
- タルソスのペラギア (400年(推定))
- Charisius (400年(推定))
- マロバウデス (400年(推定))
- クサンテンのヴィクトール (400年(推定))
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