伝記
アレクサンドリアのディオファントスは、ローマ帝国時代のエジプトの数学者である。生没年は不詳で、推定生年は200年から214年、推定没年は284年から298年とされる。エジプトのアレクサンドリアに住んでいたということ以外、人物についての詳細は分かっていない。おそらく3世紀に活動したとみられるが、引用関係から、紀元前170年ごろから紀元350年ごろまでのあいだのどこかに生きた可能性も指摘されている。ミカエル・プセロスの著作に、ディオファントスの弟子とされるアナトリオスへの言及があり、これが初期キリスト教の司教アナトリオスを指すなら3世紀の人物になるという説も出されている。
生涯について確実に近い手がかりとされるのが、『ギリシア詞華集』に収められた「ディオファントスの墓碑銘」と呼ばれる問題である。人生の6分の1は少年時代、12分の1は青年時代、さらに7分の1が過ぎて結婚し、その5年後に息子が生まれた。息子は父の年齢の半分に達したところで世を去り、父はそれから4年のあいだ数の学問で悲しみを慰めて亡くなったという。簡単な一次方程式を立てて解くと84歳という解が得られる。ただし、この情報の正確さは確かめられていない。この墓碑銘には、12分の1が頬ヒゲを蓄えるまでの期間として7分の1の後に来る形も伝わるが、解は変わらない。
主著は全13巻からなる『算術』である。290の代数的な問題を集め、解がただ一つに定まる方程式と、解が定まらない不定方程式の数値解を示している。ギリシア語版で現存するのは6巻分で、アラビア語版は4巻分が残り、1968年に発見された。ギリシア語版は第1巻から第3巻と第8巻から第10巻に、アラビア語版は第4巻から第7巻にあたる。代数で算術の問題を解く現存最古の著作とされるが、代数の方法そのものはディオファントス以前から存在し、口頭で実践され広まっていたと考えられている。問題の多くは二次方程式に帰着する。ディオファントスは、頻出する演算や未知数、その冪を省略記号で表す記法を導入した。未知数に名を与えて方程式を立て、標準形に整理し、最後に解くという三段階で問題を進める点は、中世のアラビア代数と似ている。ただし現代の記法と違い、演算や関係を表す特別な記号はなかった。
数学史に大きな影響を与えたのは数論の分野である。解を個別の数値で示しながらも、個々の数にとらわれず、問題をより一般的な視点から研究した。たとえば、すべての和と任意の2つの和がいずれも平方数となる3つの数を求める問題に、41、80、320という解を与えている。ピタゴラスの定理から派生する問題では、2つの整数から、それらの平方の差、積の2倍、平方和という3つの数を得る方法を示し、可能な解をすべて見出したとされる。多角数についての著書もあるとされる。
『算術』は16世紀に翻訳されて以降のヨーロッパの代数学の発展に深く影響した。1621年刊行のバシェによるラテン語版の余白には、フェルマーが後に最終定理と呼ばれる書き込みをした。それが知られるようになったのは、1670年に息子のサミュエルが書き込みを加えた『算術』を出版してからである。ディオファントス方程式やディオファントス近似は彼の名にちなみ、「代数学の父」と呼ばれることもある。ラグランジュは彼を「代数学の発明者」と呼んだ。その叙述は古代末期の新プラトン主義の学派で標準となり、9世紀にはアラビア語に翻訳されて、のちの代数学の発展にも影響を及ぼした。