伝記
ジャン=フランソワ・ド・ガロー、ラ・ペルーズ伯は、1741年8月23日にフランス南部のアルビ近郊で生まれた海軍士官で探検家である。ラ・ペルーズとは一族の領地の名であり、本来の家名はガローである。イエズス会のコレージュで学び、15歳でブレストの海軍学校に入った。七年戦争では北アメリカでイングランドと戦い、戦争の初期にフランス領の海岸での交戦で負傷し、投獄された経験がある。西インド諸島ではフリゲート艦エアリアルを打ち負かし、准将の位を得た。1782年8月にはハドソン湾岸にあるイングランドの二つの砦を攻略したが、生存者には食料と弾薬を与えて解放した。翌年には、中流のクレオールの若い女性ルイーズ・エレオノール・ブロドーと結婚した。
1785年、国王ルイ16世は彼に太平洋の探検を命じた。率いるのは、それぞれ500トンのフリゲート艦ブッソール号とアストロラブ号で、ハドソン湾への奇襲で部下だったド・ラングルがアストロラブ号の艦長に任じられた。この航海への同行を願い出た者の中には16歳のコルシカ人ナポレオン・ボナパルトもいたが、採用されなかった。ラ・ペルーズはイングランドの航海者ジェームズ・クックにならって太平洋の島々をめぐろうとした。乗員114名のうち10人は科学者で、天文学者のダジェレ、地理学者のラマノン、植物学者、画家などがいた。
1785年8月1日にブレストを出航し、ホーン岬を回ってチリを調査した。1786年4月にイースター島、ハワイ諸島に至り、マウイ島に上陸した最初のヨーロッパ人となった。アラスカでは同年6月にセント・イライアス山の近くに上陸したが、7月13日には、ポール・デ・フランセ湾(現在のリツヤ湾)の激しい海流に二隻のロングボートと21名の乗員を奪われた。9月14日にモンテレイへ到着し、スペインの植民地事情を調べ、フランチェスコ会のインディアンへの扱いを批判的に記した。その後、100日かけて太平洋を横断し、北西ハワイ諸島のネッカー島とフレンチフリゲート瀬を発見した。
1787年4月にマニラで補給した後、済州島沖、朝鮮海峡を通り、5月27日に鬱陵島を発見して、天文観測士の名からダジュレー島と命名した。日本海を進んで7月6日に奥蝦夷(樺太)に着き、アイヌの人々が描いた地図を見た。間宮海峡の手前まで北上したが、水深が非常に浅いと聞いて通過を断念し、南下して宗谷海峡を航行した。この海峡は後に彼の名でラ・ペルーズ海峡と呼ばれる。9月7日にカムチャツカ半島のペトロパヴロフスクへ着くと、パリからの手紙でニュー・サウス・ウェールズの調査を命じられた。通訳のド・レセップスはここで下船し、シベリアとロシアを横断して記録をフランスへ持ち帰った。結果として、彼は探検隊で唯一の生還者となった。
12月、サモア諸島で給水に向かったボートが襲われ、ド・ラングルとラマノンを含む12名が殺されたが、ラ・ペルーズは報復を自制してトンガ、オーストラリアへ向かった。1788年1月26日にボタニー湾に着くと、数日前にイギリスの艦隊が到着していた。彼は記録と手紙をイギリス艦シリウスに託し、3月10日に出航した。1789年6月には帰国できるだろうと書き残したが、一行は消息を絶った。
1791年にダントルカストーが捜索に出たが、病死して打ち切られた。1826年、ピーター・ディロンがサンタクルーズ諸島で遺品を見つけ、ヴァニコロ島で船の残骸を確認した。二隻とも暗礁で難破し、ブッソール号が先とされる。現在、同島には記念碑があり、宗谷岬にも顕彰碑が建っている。
同じ年に亡くなった人物
- フリードリヒ・ハインリヒ (ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯) (1788年没)
- サロモン・ゲスナー (1788年)
- 田沼意次 (1788年没)
- カルロス3世 (スペイン王) (1788年没)
- ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ (1788年没)
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