伝記
マドレーヌ・ド・スキュデリは、1607年11月15日に北フランスのノルマンディー地方、ル・アーヴルで生まれ、1701年6月2日に没したフランスの作家である。スキュデリ嬢の名で広く知られた。財産には恵まれなかったが、きわめて高い教養を身につけた女性だった。
父はル・アーヴルの港の長官を務めていたが1613年に亡くなり、母もそのあとまもなく世を去った。マドレーヌと兄のジョルジュ・ド・スキュデリは叔父に引き取られ、大切に育てられた。叔父は彼女に、書き方や綴り、素描、舞踊、絵画、裁縫といった幅広い教育を授けた。さらに彼女は独学で農業、医学、料理、スペイン語、イタリア語を学んだという。作品には古代史への深い知識が表れており、ギリシア語やラテン語の教育を受けていたのではないかと疑われるほどである。
1637年に叔父が亡くなると、劇作家となる兄とともにパリに居を構えた。彼女はただちにランブイエ館の洗練趣味(プレシオジテ)の集まりに迎えられ、のちには自らも「土曜会」と呼ばれるサロンを開いた。作品を出す際には、兄の名を使うことも多かった。生涯結婚しなかったが、ポール・ペリソンと親密な関係を結び、それは1693年のペリソンの死まで続いた。
代表作は長大な小説群で、『イブラヒム、または高名なる太守』(1641年、4巻)、『アルタメーヌ、または大キュロス』(1648〜53年、10巻)、『クレリー』(1654〜61年、10巻)、『アルマイド、または奴隷の女王』(1661〜63年、8巻)などがある。これらはヨーロッパ中で愛読され、セヴィニェ夫人にも称賛された。『アルタメーヌ』は約210万語とされ、これまでに出版された最も長い小説の一つに数えられる。物語は果てしない会話と、慎みをもって語られる女主人公たちの誘拐の連続から成る。舞台は古代世界や「東方」だが、言葉や行動は17世紀の流行を映し、登場人物は同時代の実在の人々に重ねられていた。読者は、ペルシア、ギリシア、ローマの戦士や乙女に姿を変えた社会の有力者たちの暮らしを垣間見て楽しんだ。彼女は実在の政治家や公人を薄く偽装して描く「鍵小説」の形式を作ったとされる。『クレリー』ではペリソンがエルミニウスとして、ポール・スカロンとその妻(のちのマントノン夫人)がスカウルスとリリアーヌとして描かれ、『大キュロス』第10巻のサッポーの描写は作者自身の自画像である。『クレリー』には、愛を主題とした地理を持つ「優しさの国の地図」も登場し、「傾愛の川」が「恋文」や「心づかい」といった村々のそばを流れる。
1642年の『名高い女たち』は女性に向けて書かれ、美しさや化粧ではなく教育こそが女性の社会的上昇の手段だと説いた。『種々の話題についての会話』(1680年)や『国王に捧げる新しい会話』(1684年)では、キケロ、クインティリアヌス、アリストテレスらの古典修辞学を、サロンでの会話や手紙の理論へと作り替えた。会話が巧みで教育者としての天分もあり、生前には彼女の会話を伝えるとされる書物が何冊も刊行された。
兄の死後30年以上を生き、晩年には小説から抜粋した会話集を多数出版して、自作の選集のようなものを作った。人生の最後の40年間は耳が聞こえなかった。流行は過ぎたものの友人たちの輪は保ち、マリー・デュプレなどにとっては最後まで「比類なきサッポー」であり続けた。1873年にはその生涯と書簡集がパリで刊行されている。
同じ年に亡くなった人物
- ドメニコ・グイディ (1701年)
- ウィリアム・キッド (1701年没)
- フィリップ1世 (オルレアン公) (1701年没)
- アンヌ・イラリオン・ド・コタンタン (1701年没)
- ルイ1世 (モナコ公) (1701年没)
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