伝記
マルキオンは、2世紀のローマで活動した、小アジア(現在のトルコ)のシノペ出身のキリスト教徒である。シノペのマルキオン、あるいはポントスのマルキオンとも呼ばれる。生没年は100年ごろから160年ごろとされるが、85年ごろの生まれとする説もある。聖書の「正典」という考えを初めて打ち出し、自らの基準で独自の聖書正典を編んだ人物で、教会からは異端とされた。
生涯について確かなことは少なく、のちの論敵による後付けの作り話も多いとされる。黒海沿岸のポントス地方の港町シノペに生まれ、裕福な船主だったと伝えられる。父は司教で、息子が成人した頃にシノペの教会の「司教」になったとされるが、当時まだ司教制が確立していなかったため疑わしいとする見方もある。父と対立して出奔したともいわれ、ヒッポリュトスは、乙女を誘惑しようとして父に追い出されたと伝えるが、これは異端者が清らかな教会を堕落させようとすることの比喩とも受け取られている。その後スミルナなど小アジア各地を経て、140年ごろローマに着いた。ローマの教会では、当時の指導者ピウスのもとで共同体に加わり、私財を惜しみなく寄付して受け入れられた。ケルドンという人物を師としたというが、この人物についてはほとんど何も分からない。
ローマで重んじられるようになったマルキオンは、新約聖書の先駆けともいえる書物を示した。自身の序文のほか、パウロの手紙を集めた部分と、ルカによる福音書を削って整えた福音書の部分からなる。福音書からはルカだけを選び、パウロの手紙は13通のうち10通を取り入れ、テモテへの二つの手紙とテトスへの手紙は含まれなかった。ただし、これらをマルキオンが知らなかった可能性もある。採用した文書もそのまま用いず、手を入れて削った箇所があった。旧約聖書はキリスト教徒に不要だとして退け、ユダヤ教の色彩を帯びたものを除いたのである。これが歴史上最初の正典編纂とされ、のちに教会内で新約聖書の正典を整える動きが進む反動を生んだ。
その思想は、論敵の著作から推測される。イエスはユダヤ教が待ち望んだメシアではなく、まことの神から遣わされた者である。ユダヤ教のメシア像は、異邦人を打ち破る政治的な指導者を含んでおり、それが誤りだとマルキオンには思えたのだという。神が人間のように苦しむはずはないとして、イエスの人間性を否定し、肉体を持たず天から降った者と考えた。こうした見方を仮現説という。一方、旧約の神、すなわち世界の創造者であり律法の神は、怒りと嫉妬の不完全な神であり、その造った世界は苦しみに満ちているとした。イエスが示したのはそれとは異なる、慈しみのまことの神だと説いたのである。物質の世界を悪とする二元論からグノーシス主義に含められることが多い。しかし、福音書などを新たに創作せず正典を極端に限り、認識よりも信仰を重んじたため、区別すべきだとする研究者もいる。
やがて教会と対立し、その思想は正統でないと判断されて、144年の教会会議で破門された。マルキオンはローマに独自の教会を設け、その信奉者はマルキオン派と呼ばれた。初めローマで栄え、のち各地に広がり、エジプト、メソポタミア、アルメニアにまで及んだともいう。教会は焚書を行い、著書は現存しないが、ユスティノス、エイレナイオス、オリゲネスらの反論から内容がうかがえる。特にテルトゥリアヌスの『マルキオン反駁』が重要である。基本文献は、1921年に出版されたアドルフ・フォン・ハルナックの『マルキオン』である。
同じ年に亡くなった人物
- マルクス・コルネリウス・フロント (160年(推定))
- ウァレンティノス (160年没)
- クィントゥス・ロリウス・ウルビクス (160年)
- シモン・バル=ヨハイ (160年)
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