伝記
ジョン・ディーは、イングランドの数学者、占星術師、錬金術師である。1527年7月13日にロンドンで生まれ、1608年または1609年にモートレイクで没した。エリザベス1世の顧問として知られ、数学や天文学、航海術に通じる一方、魔術や天使との交信にも没頭した。ヴォイニッチ手稿の歴代所有者の一人とする説もある。
父は王室に仕える下級の官僚で、織物商でもあった。一家はウェールズ系で、ヘンリー・テューダーがヘンリー7世として即位した折にロンドンへ来たという。1542年にケンブリッジ大学に入り、1548年に修士号を得た。学内でアリストファネスの劇を上演した際の見事な舞台装置が、魔術師という評判を生涯まとわせる原因になったという。その後ルーヴァン大学に2年間留学し、ゲンマ・フリシウスや地図製作者ゲラルドゥス・メルカトルらと交わった。パリ大学ではユークリッドについて講じ、20代のうちに代数学の講義を求められたほど学識を認められた。1551年に帰国するとエドワード6世の宮廷学者・宮廷占星術師となり、翌年にはペンブルック伯爵家に仕え、ノーサンバーラント公の子供たちの家庭教師も務めた。この頃ロンドンでジローラモ・カルダーノと知り合い、永久機関や魔力を持つとされる宝石を共に調べたという。
メアリ1世が即位すると、魔術の嫌疑で投獄されたが、釈放された。女王や王女エリザベスの星占いをしたとの疑いで訴えられ、のちに女王への反逆罪にまで広げられたともいわれる。ディーは星室庁で身の潔白を示したが、カトリックの司教ボナーによる宗教上の取り調べを受け、やがてその協力者となった。1556年には古い書物や写本、記録を保存して国立図書館を作る構想を女王に示したが、採用されなかった。そこでモートレイクの自宅に私的な蔵書を築き、英国最大、ヨーロッパでも屈指の規模にまで育てて、多くの学者を引きつけた。1564年に『象形文字の単子』を出版し、1570年にモートレイクに居を構えた。1574年に結婚したが翌年に妻は亡くなり、1576年にジェイン・フロモンドと再婚した。
1558年にエリザベスが即位すると、占星術や科学の相談役として信頼を得て、戴冠の日取りも自ら選んだ。1580年ごろからは水晶玉をのぞいて心霊を観る研究と、大天使ウリエルとの交感を始めた。水晶玉に現れる天使が用いる奇妙な言語を、ディーは「エノク語」と呼んだ。後の研究では、でたらめではなく、それなりに筋の通った構造を持つ言語だと分かったが、英語によく似ているともいわれる。1583年から1589年にはエドワード・ケリーと組み、ポーランドとボヘミアを巡って、各地の王宮で貴族たちに交霊と魔術を披露し、評判になった。1595年、ケリーは皇帝ルドルフ2世から魔術師の嫌疑をかけられて投獄され、脱獄に失敗して死んだ。ディーは帰国し、女王にリッチモンドで自ら出迎えられて、マンチェスターのキリスト教大学の校長に任じられた。
1603年にジェームズ1世が即位すると、大の魔術嫌いの王のもとで引退を余儀なくされた。ディーは1608年、モートレイクで貧困のうちに世を去ったとされる。その後、エノク文書は19世紀末に再発見され、黄金の夜明け団の内部文書として魔術的に解釈されて、のちに公刊された。20世紀以降の西洋のオカルティズムで「エノクの魔術」と呼ばれる体系の源と見られている。ラヴクラフトが創作した架空の書物ネクロノミコンの英訳者とされるなど、小説や映画、ゲームにもたびたび登場する。
同じ年に亡くなった人物
- イェフダ・レーヴ・ベン・ベザレル (1609年没)
- フェデリコ・ツッカリ (1609年没)
- ヨセフ・スカリゲル (1609年没)
- ジャン・レオナルディ (1609年没)
- ハンス・フレーデマン・デ・フリース (1609年)
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