HISTORICAL PERSON · 150年没

馬鳴

古代インドの仏教僧。バラモン出身で、初め仏教を非難したが論破されて帰依した。カニシカ王の保護を受けて布教し、仏陀の生涯を描いた詩を著した。

生涯
150年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

馬鳴(めみょう、アシュヴァゴーシャ)は、古代インドの仏教僧侶、詩人、劇作家である。後80年頃に生まれ、150年頃に没したとされる。名の意味は「馬の嘶き」で、サンスクリット語による最初の劇作家ともいわれ、カーリダーサ以前における最大のインド詩人とみなされている。生誕地はサーケータ、現在のアヨーディヤーと伝えられる。もとの俗名は知られておらず、馬鳴は後につけられた呼び名にすぎないとされる。

バラモンの家系に生まれ、学僧として議論を好んだ。伝記によれば、初めは遍歴の修行者として論敵をことごとく打ち破り、仏教を非難していた。仏教の僧たちに論争を挑み、応じる者がなければ供養を促す木の板を打ち鳴らすのをやめよと迫ったため、僧たちは板を打つのをやめたという。これを知った北インドの長老パールシヴァ(脇比丘)が出向いて板を鳴らさせ、七日後に王や大臣、多くの修行者やバラモンの前で論争が行われた。敗れた者が勝った者の弟子となる約束であり、長老が「世は平穏で、王は長寿、作物は豊かで、国中に喜びが満ち、あらゆる災いがないように」と述べると、馬鳴は返す言葉を失った。すぐには納得せず、長老が神通力の基礎を身につけていることを示してようやく信を得たという。日本語で広く伝わる話では、論破した相手は付法蔵の第11人目の富那奢(第10人目の脇比丘とも)とされ、馬鳴は舌を切って謝罪しようとしたが諭されて仏教に帰依し、布教に励むようになったという。

聡明で智慧に富み、天賦の詩才をもって民衆を教化した。中インドの華氏城(パータリプトラ)では、釈迦の弟子ラッタパーラをモデルに戯曲を作って演じたところ、多くの市民が無常を悟り、500人もの王子や人々が出家した。そのため王はついにこの戯曲の上演を禁じたといわれる。

のちに大月氏国(クシャーン朝)のカニシカ王が中インドを征服して和議が結ばれると、馬鳴は王に伴われて北インドへ赴いた。別の伝えでは、中インドの王が三十万の金の賠償を求められながら十万しか払えず、クシャーナ王は仏の鉢、この僧、十万の金を求めたという。中インドの王は不満だったが、僧は仏法が四方に広まるためだと説いて王を納得させた。クシャーナ王の大臣たちは僧の値が十万の金に見合うか疑ったので、王は七頭の馬を六日間飢えさせ、僧に説法させた。好物を目の前にしながら馬は説法に聞き入り、涙を浮かべたため、人々はその価値を認め、馬が声を理解したことから馬鳴と名づけられたという。別に、生まれたとき国中の馬が一斉に嘶いたのでこの名がついたとする伝えもある。カニシカ王の保護のもとで仏法を宣べ伝え、民衆から尊敬され、太陽のように徳のある人という意味で「功徳日」と敬称された。

馬鳴本人の作と確実とされるのは三つある。仏陀の生涯を描いた詩『ブッダ・チャリタ』は、サンスクリット本は後半が欠け、漢訳は曇無讖訳の『仏所行讃』5巻28品である。義浄は、この作品がインド各地や南海の国々で広く読まれ、少ない言葉で多くの思想を表し、読む者を飽きさせなかったと記した。仏陀の腹違いの兄弟ナンダの回心を描いた詩『サウンダラナンダ』は、前半でナンダの生涯を、後半で教理と修行を述べ、ネパールのサンスクリット本で知られる。舎利弗と目連の帰依を描いた九幕の戯曲『シャーリプトラ・プラカラナ』は、中央アジアで断片が発見された。『大荘厳論経』『金剛針論』『犍稚梵讃』なども馬鳴の著作と伝えられるが真偽は不明である。『大乗起信論』などは2世紀より後の作品であることが明らかとされる。伝記は『馬鳴菩薩伝』や『付法蔵因縁伝』に詳しい。

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