伝記
フランソワ・ヴィヨン(1431年?-1463年以降)は、15世紀フランスの詩人である。中世最大の詩人とも、最初の近代詩人ともいわれる。
1431年にパリで生まれたとされるが、1429年か1430年生まれの可能性も指摘される。出生の年は、1461年に書かれた『遺言詩集』の冒頭の「わが30歳の年に」という句が根拠になっている。家系は不明で、貧しい家に生まれ、父はまもなく亡くなったとされる。母は1461年にパリのセレスタン修道院の教区民だったことが、詩のなかの母に託した聖母への祈りの歌からうかがえる。幼いころ親類の聖職者ギヨーム・ド・ヴィヨンに引き取られ、この時期から「ヴィヨン」を名乗り始めた。本来の姓は「モンコルビエ」ともいわれ、現在の研究者の多くはこれを本名と認める。ほかに「デ・ロージュ」の名も記録に見える。
ギヨームの援助でパリ大学に学び、およそ21歳で文芸学部の教師の資格を得て卒業した。しかし在学のころから、娼婦やならず者と行動を共にしていたという。1455年、乱闘騒ぎで司祭を殺してパリから逃れ、アンジュー近郊の窃盗団に加わったとされる。その後は恩赦を受けたが、再び罪を得た。ナヴァール学寮の盗難事件に関わる取り調べも記録に残る。ブロワでは詩人でもある公爵シャルル・ドルレアンの宮廷に迎えられたが、そこで身を立てることはできなかった。やがて放浪の貧しい暮らしとなり、1461年にはマン・シュール・ロワールの牢獄に投獄されたが、恩赦によって出獄した。
1456年以降は公文書でもフランソワ・ヴィヨンの名でのみ知られ、1458年のナヴァール学寮の盗難の取り調べでは供述をしている。教皇庁の公証人フェルブークが、サン・ジャック通りで短剣で傷を負わされた事件でも投獄された。この間、司祭フィリップ・セルモワーズの殺害については赦免状が出されたが、一通には「マギステル・フランソワ・デ・ロージュ、またの名をヴィヨン」と記されている。1462年、淫売宿での強盗・傷害事件で再び投獄され、一時は絞首刑を宣告された。上訴の結果、判決は破棄され、10年間のパリ追放に減刑されて、1463年にパリを去った。その後の消息に関する記録は一切ない。ラブレーの『パンタグリュエル物語』には、追放後にポアトゥの修道院で隠退して暮らす様子が描かれるが、史実には基づかない。
無頼と放浪の生涯であったが、近代的ともいえる詩を残した。作品に『形見の歌』(1456年)と『遺言詩集』(1461年)があり、個別の詩では「昔の貴婦人たちのバラード」がとりわけ名高い。作品は没後の数十年のうちに刊行されて成功を収め、『遺言詩集』は1489年に版が出された。そのころから、悪戯者の詐欺師から呪われた詩人まで、時代によってさまざまな顔をもつ「ヴィヨン伝説」が形づくられていった。作品の世界は、シャルル7世時代のパリである。大学や居酒屋、娼婦たちのいる左岸、魚売りの女たちやイノサン墓地、モンフォーコンの絞首台のある右岸が、詩に登場する。大学には50の学寮があり、学芸の学生が3000人、神学者や法学者、医者の卵が600人いたという。作品には当時のパリへの言及や言葉遊び、二重の意味を含む表現が多く、読み解くには注釈と説明が要るとされる。日本でも、鈴木信太郎や佐藤輝夫らによる翻訳が刊行され、太宰治の『ヴィヨンの妻』をはじめ、多くの作品の題材にもなっている。
同じ年に亡くなった人物
- 周文 (1463年)
- マリー・ド・ブルゴーニュ (1463年没)
- ディエゴ・デ・アルカラ (1463年)
- フラヴィオ・ビオンド (1463年)
- ボローニャのカタリナ (1463年)
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