伝記
マリー・ド・フランスは、12世紀後半に活動した中世フランスの女流詩人である。文才と学問に秀でていたとされるが、その生涯の詳細は分かっていない。生没年も不明で、作品と名前のほかには何も知られていない謎の人物である。西欧で俗語による著作を残した最初の女性文人とも評され、宮廷風恋愛を生み出した作家たちの第二世代に数えられる。祖母の世代にあたるエロイーズがラテン語でしか書かなかったのに対し、マリーは日常の言葉で書いた最初期の女性として知られ、寓話集の結びに自分について語った言葉だけが、本人に関する数少ない手がかりである。
本名も不明で、「マリー・ド・フランス」の呼び名は、作品の一行にある「私の名はマリーで、フランスの出身です」という言葉に由来する。当時の「フランス」の語は曖昧で、パリ周辺のイル・ド・フランスから王国全体まで幅広い意味に使われたため、出身地をこの言葉から定めるのは難しい。作品に詳しく書かれた土地がノルマンディーの海岸だけであることから、ノルマンディー出身ではないかという見方もある。12世紀後半にはイングランド宮廷、すなわちヘンリー2世と王妃アリエノール・ダキテーヌのもとへ赴き、詩作とラテン文学の翻訳を行って、アングロ=ノルマン語、つまり古フランス語の一方言で作品を残したと考えられている。作品中に英語の言葉を訳して添える箇所があることも、英語を話す聴衆に向けて書いたことを思わせるとされる。
その正体については、いくつもの人物が候補に挙がってきた。アンジュー伯ジョフロワ5世の庶子でヘンリー2世の異母姉妹にあたり、のちにシャフツベリー尼僧院長となったマリー、レディングの尼僧院長のマリー、スティーヴン王の娘でブローニュ女伯のマリー、バーキングの尼僧院長のマリー、ヒュー・タルボットの妻マリー・ド・ムーランなどである。コンピエーニュの生まれとする説もある。ドイツの歴史家リヒャルト・バウムのように、多くの無名の作者をめぐって生まれた神話にすぎないとみる研究者もいる。
作品の制作年は、早ければ1160年頃、遅くても1215年頃までの間とされ、主要な4作は1170年頃から1205年の間に書かれたと考えられている。ほかの作品との影響関係から、レーは1160年から1178年の間、寓話集は1167年から1189年の間、『聖パトリックの煉獄』は1189年以降と推定する見方もある。「レー」は恋を主題とする12篇の短詩で、短いロマンスにも似ている。「高貴なる王」と「ウィリアム伯」に捧げられており、王はヘンリー2世か長男の若ヘンリー王、伯はウィリアム・ド・マンデヴィルかウィリアム・マーシャルと推測されている。寓話集は、ラテン語で伝わったイソップ寓話をフランス語に訳したもので、独自の寓話も含む。『聖パトリックの煉獄』はラテン語の作品の翻訳である。近年は、聖オードリーの生涯を扱った作品も彼女のものとする説が出された。
レーは生前、フランスとイングランドの宮廷で大きな成功を収めたが、騎士道の流行が百年戦争の時代に衰えると忘れられた。一方、寓話は長く読み継がれ、のちのラ・フォンテーヌにも影響したとされる。レーは、英訳とロマン主義、古フランス語研究の高まりによって19世紀に再発見された。1816年には英国の詩人マティルダ・ベサム=エドワーズが、彼女を題材にした長詩「マリーのレー」を書いた。日本では「すいかずら」「ギジュマール」「ランヴァル」などが新倉俊一によって訳されている。
同じ年に亡くなった人物
- ニムバルカ (1300年没)
- ラヤモン (1300年(推定))
- デスピナ (イルハン朝) (1300年(推定))
- John of Garland (1300年(推定))
- ロイ・マタ (1300年(推定))
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