HISTORICAL PERSON · 1166年没

アブドゥルカーディル・ジーラーニー

カーディリー教団の名祖で、スーフィー聖者として名高い。ギーラーン地方に生まれ、バグダードで没したハンバリー派の法学者。

生涯
1166年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

アブドゥルカーディル・ジーラーニーは、カーディリー教団の名祖である11〜12世紀の人物で、スーフィーとして高名なハンバリー派の法学者であり、宣教師でもあった。その伝記は伝説に満ちているが、実在した人物である。1077年または1078年にカスピ海の南部、ギーラーン地方で生まれ、1166年にバグダードで亡くなった。ジーラーニーという名はギーラーン出身であることに由来するニスバで、バグダードで没したためバグダーディーとも呼ばれる。多くのスーフィーから信仰の復興者と見なされたことから「ムヒーユッディーン」の尊号があり、「ガウスル・アーザム」の呼び名もある。

出自ははっきりしない。伝統的にはハサンの系統を引くサイイドとされ、ムスリムの多くはこの説を信じている。しかし伝わる系譜では父(または祖父)の名がイラン系のジャンギー・ドーストであり、ギーラーンの出身を示すニスバとあわせて、ハサン裔説とは矛盾するとの指摘がある。バグダードで「アジャミー」(非アラブ)とも呼ばれたことから、イラン人だったと推測する見方もあり、預言者に至る系譜は熱心すぎる聖人伝作家が見つけ出したものだろうとも評されている。生地についてはイラクのジールとする説もあるが、現代の歴史学者の多くはギーラーン地方出身と考えている。また、フランス語圏の伝承では、生地はギーラーンの小さな町ニーフで、母は60歳で彼を産んだともいわれる。

1095年、18歳のときにバグダードへ移り、以後はほぼ生涯をそこで過ごした。アブー・サイード・ムバーラク・マフズーミーとイブン・アキールにハンバリー派法学を、アブー・ムハンマド・ジャアファル・サッラージュに伝承学を学び、精神修養は別の師に学んだ。学び終えるとバグダードを去り、25年間イラクの沙漠をさまよったと伝えられる。シャーフィイー派とハンバリー派の双方に属し、両派の考えに基づくファトワーを同時に発したため、ナワウィーが称賛したという。フランス語圏の伝承では、その後にメッカ巡礼を行って結婚し、子は49人の息子を含む非常に多数にのぼったという。1100年ごろには師ではなくハンバリー派の裁判官から、霊的権威のしるしである外衣を受けたとされ、この二重の系譜によって正統信仰と神秘主義を調和させ、スーフィズムにかけられた異端の疑いを払ったと語られる。

1127年にバグダードへ戻って公衆に向けた説教を始め、師マフズーミーの学校で教えて生徒に人気を得た。午前は伝承学と解釈学を、午後はクルアーンの核心を講じた。ユダヤ教徒やキリスト教徒を多数改宗させたといわれ、スーフィズムの神秘思想とイスラーム法学をよく統合した説教師であったとされる。説教では内面の浄化と神の愛、倫理的な生き方が強調され、さまざまな背景の人々を惹きつけた。バグダードのカーディリーヤ学院はクルアーン学、伝承学、フィクフ、神秘思想を教える拠点となり、各地から生徒が集まった。ヌールッディーン・ザンギーやサラーフッディーン・アイユービーも教えに敬意を払ったとされる。1166年にバグダードで没し、同地に埋葬された。命日にあたるウルスは、伝統的に第2ラビー月11日とされる。霊廟はサファヴィー朝のイスマーイール1世の時代に一度破壊されたが、オスマン朝のスレイマン1世が1535年にドームを建てた。著作には『秘密の中の秘密の書』『不可視の秘密』『心の浄化』『探究者の宝』『主の勝利』などがある。

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