伝記
キロンは、紀元前6世紀にスパルタで活動した政治家であり、古代ギリシアの「七賢人」の一人に数えられる人物である。スパルタ社会の軍事化を進めた人物として名が挙がり、賢人としての格言とあわせて、後世のギリシア人に長く記憶された。父はダマゲトスと伝えられ、生きた時期は6世紀の初め頃とされる。
その年代を示す手がかりは古代の記録に散らばっている。ヘロドトスは、彼をペイシストラトスの父ヒッポクラテスと同時代の人として語っている。ディオゲネス・ラエルティオスは、第52回オリンピア紀(紀元前572年)にはすでに老人であったと述べ、この時期は寓話作家イソップの全盛期にあたるという。さらに、第56回オリンピア紀(紀元前556年から555年)にエポロス(監督官)に選ばれたと伝える。アルキダマスは、彼がスパルタの民会の成員だったと述べている。さらにラエルティオスは、エポロスを王の助言者として王に並べる慣行を初めて持ち込んだのも彼だと主張しているが、これは古代の伝えであり、確かめきれない話である。
政治面では、シキュオンの僭主政を倒すのに力を貸したと言われる。シキュオンはその後スパルタの同盟国となった。また、6世紀にスパルタの政策が転じてペロポネソス同盟が形づくられていく過程に、彼が関わったとも評価される。ただし、いずれも「とされる」「言われる」と伝わる域を出ず、細かな経緯は分からない。彼の子孫の一人がスパルタ王アナクサンドリダス2世と結ばれ、王クレオメネス1世を産んだとも伝えられており、王家とも縁が深かった様子がうかがえる。彼はスパルタの制度や外交の方向が定まっていく時期を象徴する人物として、古くから語られてきたのである。
賢人としての名声を支えたのは、簡潔な言葉である。「スパルタ風にふるまうことは哲学することである」という古い諺は彼に結びつけられ、言葉少なに本質を突くスパルタ人の気質を表すものと理解されてきた。ラエルティオスは彼を哀歌詩の作者とも記し、多くの教えを彼に帰している。友人は栄えているときより不幸なときに先に訪ねよ、死者を悪く言うな、老いを敬え、恥ずべき利得より罰を選べ、不幸な人を笑うな、強い者は情け深くあれ、自分の家をよく治めよ、舌を思慮より先に走らせるな、怒りを抑えよ、占いを嫌うな、不可能なことを望むな、道を急ぎすぎるな、法に従え、といった内容である。どれも、節度と自制を重んじる調子で貫かれており、隣人から恐れられるより敬われよ、という趣旨の言葉も含まれる。
デルフォイの神託所に刻まれたという「汝自身を知れ」の格言も、伝統的には彼の言葉とされる。ただし、この帰属は万人に認められたものではなく、他の賢人、あるいは神アポロン自身が言い出したとする説もある。
最期については、息子がオリンピアの競技祭で拳闘の賞を得たとき、喜びのあまり息絶えたという逸話がある。ラエルティオスは、これに高齢による衰えが重なったのだと伝えている。葬儀には祭りに集まっていたギリシア人が皆参列したとされる。ラエルティオスによれば、彼の像には、槍で飾られたスパルタが七賢人のうち知恵の第一人者であるキロンを生んだ、という趣旨の銘があったという。事績の多くが伝承であるにせよ、彼は簡潔さと節度の象徴として、その名を残している。
同じ年に亡くなった人物
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