伝記
アウグスト2世は、ポーランド・リトアニア共和国の国王(在位1697年~1706年、1709年~1733年)であり、ザクセン選帝侯(在位1694年~1733年)でもあった。選帝侯としてはフリードリヒ・アウグスト1世と呼ばれる。驚異的な怪力で知られ、「強健王」「ザクセンのヘラクレス」「鉄腕王」などと称され、その異称を証明するため、素手で蹄鉄をへし折るのを好んだという。
1670年、ヨハン・ゲオルク3世とデンマーク王フレデリク3世の娘アンナ・ソフィーの次男として、ドレスデンに生まれた。次男であったため選帝侯位を継ぐ立場になく、1691年に父が没すると、兄ヨハン・ゲオルク4世が相続した。1693年にはブランデンブルク=バイロイト辺境伯の娘クリスティアーネ・エーベルハルディーネと結婚し、一人息子フリードリヒ・アウグスト(後のアウグスト3世)が生まれた。1694年、兄が愛妾からうつされた天然痘で嫡出子を残さず急死したため、選帝侯位を継いだ。1696年には大トルコ戦争でドナウ川方面の司令官に任じられたが、戦果を挙げられず、翌年プリンツ・オイゲンに交代させられた。
ポーランド王選挙に出る資格を得るため、カトリックに改宗した。ザクセンの選帝侯は伝統的に「宗教改革の擁護者」と呼ばれ、選帝侯国は福音主義教会の拠点であったから、この改宗は世間を驚かせた。その結果、帝国議会における新教徒派の指導者の地位はブランデンブルク=プロイセンに移り、福音主義の臣民の一部は国を離れた。王位獲得のためにザクセンの国庫から莫大な資金がポーランドの貴族や聖職者への賄賂に消え、同時代人はこの執念を「ポーランドへの投機」と嘲った。妻クリスティアーネは改宗に従わず、熱烈なルター派であり続け、夫の戴冠式にも出なかった。
1696年のヤン3世ソビエスキの死後、1697年にロシアとオーストリアの支援を得て国王に選ばれた。得票ではフランスの推すコンティ公に及ばなかったともいわれ、公が共和国に入る前に急行して戴冠式を行い、既成事実を作った。このため王位の合法性を疑う声が一部にあった。1699年のカルロヴィッツ条約でポーランドはポドレとカミェニェツ=ポドルスキを回復した。
ところが、改革の構想は領土獲得への期待の前に消えた。デンマーク王フレデリク4世やロシアのピョートル1世と結んでスウェーデンのカール12世から領土を奪おうとして大北方戦争を招き、1701年のドヴィナ川の戦いで敗れた。カール12世は1702年にワルシャワを占領し、1704年にスタニスワフ・レシチニスキを王位につけた。アウグストは1706年のフラウシュタットの戦いで敗れ、アルトランシュテット条約で王位の放棄を認めさせられたが、1709年のポルタヴァの戦いでロシアがスウェーデンを破ると、ロシアの援助で復位した。以後、絶対王政の導入を図ってシュラフタ(貴族階級)の反対に遭い、1717年の無言議会では、ロシアの利益に沿った調停文書への署名を強いられた。
1720年のストックホルム条約で大北方戦争は終わったが、得たものは王位の確定だけであった。共和国はロシアの軍事力に守られる存在となった。一方、選帝侯としてはドレスデンを文化の中心に変え、ヨーロッパ中から芸術家や音楽家を招き、ツヴィンガー宮殿やサスキ宮殿のバロック建築を築いた。1733年にワルシャワで没し、息子がアウグスト3世として王位を継いだ。庶子は多く、最も有名なのはフランス元帥となったモーリス・ド・サックスである。
同じ年に亡くなった人物
- イッポリト・デジデリ (1733年)
- ピエール・ファンデル・アー (1733年)
- バーナード・デ・マンデヴィル (1733年没)
- ヘンリエッタ・チャーチル (第2代マールバラ公) (1733年没)
- ヨハン・ヤーコブ・ショイヒツァー (1733年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴォイチェフ・コルファンティ (1939年没)
- Aleksander Gieysztor (1999年没)
- アンナ・ゲルマン (1982年没)
- ジグムント・マラノウッツ (2021年没)
- ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ (1980年没)