伝記
ダニエル・デフォーは、1660年ごろに生まれ、1731年4月に没したイギリスの著作家でありジャーナリストである。『ロビンソン・クルーソー』の作者として知られる。生年と生地ははっきりせず、1659年から1662年までの説があり、1660年の夏か初秋が最も可能性が高いとされる。本名はダニエル・フォーで、のちに貴族的な響きを持つデを付けた。フォーには敵や障害といった負の意味があるのを嫌ったためとされ、ダン・フォーやダン・デ・フォーなどと名を変えたのち、デフォーに落ち着いた。
ロンドンで、獣脂ろうそくの製造に携わる非国教会派のジェームズ・フォーの子として生まれた。母は10歳ごろまでに亡くなっていた。幼い頃には1665年のペスト大流行を経験し、翌年にはロンドン大火も起こり、近所では自宅を含む3軒しか残らなかったと伝えられる。サリー州ドーキングの寄宿学校で学び、14歳ごろに非国教徒の学院に送られた。著作活動に入る前は、靴下や毛織物、ワインなどを扱う商人として働いた。田舎の屋敷や船を買うほどの野心家で、時には巨富を築き、時には破産するなど、実生活でもロビンソン・クルーソーのように浮き沈みが激しかった。1684年1月にメアリー・タフリーと結婚し、結婚生活は47年続き、8人の子が生まれた。
1685年にモンマス公の反乱に加わりながら処罰を免れた。これが政治活動の始まりとされる。1688年の名誉革命でウィリアム3世とメアリー2世が即位すると、ロンドンで途中まで出迎えた。ウィリアム3世が単独の君主となってからは、彼を支持する立場をとり、『常備軍論』や、外国人排斥を批判した『生粋のイングランド人』などでその擁護に努めた。
1702年にウィリアム3世が没して国教会派のアンが即位すると、トーリー党は非国教徒の絶滅を主張した。デフォーはこれを痛烈に皮肉ったパンフレット『非国教徒撲滅策』を出し、1703年7月31日に捕らえられてさらし台にあげられた。そこで「さらし台への賛歌」を発表すると、観衆はふつうならば汚物を投げつけるところを、花と飲み物を与えたという。トーリー党の幹部ロバート・ハーレーの引き立てで釈放され、1704年にはハーレーのもとで週刊誌『レヴュー』を発行し、実質的な政府の広報官となった。偽名を用いてスコットランドに潜入し、匿名の政治文書を書き、イングランドとの合邦の利を説いて回った。1707年の合同法でグレートブリテン王国が成立した。ハーレーが失脚すると、デフォーの立場も不安定になり、1713年に逮捕されて『レヴュー』も廃刊になった。1714年にジョージ1世が即位してホイッグ党が政権を取ると、秘密活動の継続を条件に作家活動を続けた。
1719年、59歳で『ロビンソン・クルーソー』を出版して大成功を収めた。年内に4版を重ね、その後最も広く出版された書物のひとつになった。翌1720年に『海賊シングルトン』を出し、1722年に『モル・フランダーズ』『ペスト』、1724年に『ロクサーナ』を出版した。1730年に突如失踪し、翌1731年にロンドンで亡くなった。71歳であった。
同じ年に亡くなった人物
- アントワーヌ・ウダール・ド・ラ・モット (1731年没)
- アントニオ・ファルネーゼ (1731年没)
- アウグスト・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公) (1731年没)
- ルイーズ=イポリット (モナコ女公) (1731年没)
- エティエンヌ・F・ジョフロア (1731年没)
同じ地域に関係する人物
- ノーマン・バーケット (1962年没)
- トマス・ロッジ (1625年没)
- フレデリック (ヨーク・オールバニ公) (1827年没)
- チャールズ・ウィルキンズ (1836年没)
- アンソニー・ヴァン・ダイク (1641年没)