伝記
バルトロメオ・クリストフォリは、1655年5月4日にパドヴァで生まれ、1732年1月27日にフィレンツェで没した楽器製作家である。フィレンツェのメディチ家に仕え、ピアノを発明した人物として知られる。生涯を伝える史料は多くなく、出生と死亡の記録、2通の遺言書、雇い主へ送った請求書、そして当時影響力のあった文筆家マッフェイによる取材の記録が残るのみである。
ヴェネツィア共和国のパドヴァに生まれたが、若い頃について伝わることはない。ヴァイオリン製作家ニコロ・アマティの工房で見習いをしていたという話があるのは、1680年の国勢調査記録に、クレモナのアマティの家に「クリストファロ・バルトロメイ」という人物が居住しているとあるのに基づく。しかしこの人物は13歳と記録され、洗礼記録によるとクリストフォリは当時25歳のはずなので、別人とするのが妥当とされる。研究者ポーレンズは、クリストフォリの製作とされるチェロやコントラバスの真贋にも疑いを唱えている。
次に記録に現れるのは1688年、33歳のときに、トスカーナ大公コジモ3世の子で、音楽を愛する強力なパトロンだったフェルディナンド大公子に雇われたことで、これが生涯で最も大きな意味を持つ出来事であった。理由は伝わっていないが、同年にヴェネツィアの謝肉祭へ出かけた帰途にパドヴァで会ったのかもしれない。大公子は多数の楽器を維持管理する技術者を失って、人材を探していた。ただ、単なる維持管理ではなく、新しい楽器の開発者として迎えた可能性も指摘される。フィレンツェには能力のある人材が数多くいたのに、大公子は彼らを雇わず、前任者より高給でクリストフォリを迎えた。請求書の中にピアノの記録が一切ない点から、発明の成果をメディチ家へ手渡すことが求められていたのではないかと推測されている。大公子は40以上の時計を集めるほどの機械好きで、手の込んだアクション機構にも関心を持ったと考えられる。マッフェイの取材記録には、雇用の際に「公には行きたくないと伝えた。彼は行きたくなるようにすると答えた」という会話が見え、説得があったことがうかがえる。給料は月12スクーディで、1688年5月にはフィレンツェに移り、家具付きの家を与えられた。楽器の調律、調整、輸送を担い、古いチェンバロを修復し、さまざまな発明に取り組んだ。当初の仕事場は職人約100人が働く騒がしい部屋の一角で、彼は不満を抱いていたが、やがて専用の工房を得て、通常は一人か二人の助手と働いた。
17世紀末までに2種類の鍵盤楽器を発明し、1700年の所蔵楽器目録に記録がある。大型で複数ストップを持つスピネットのスピネットーネと、最も長い弦がケースの真ん中に位置する独創的なオーバル・スピネットである。ピアノの信頼できる最古の記録も同じ1700年の目録で、アルピチェンバロと呼ばれ、音域は4オクターヴであった。マッフェイの記事によれば、1711年までに3台のピアノを作っていた。1713年に大公子が50歳で没したのちも宮廷に仕え、1716年にはコレクションの管理人の地位にあった。メディチ家が衰えると、自身の楽器を売り、ポルトガル王も購入者に含まれた。助手のジョヴァンニ・フェリーニはのちに著名な製作家となった。現存するクリストフォリのピアノは1720年代の3台で、ニューヨーク、ローマ、ライプツィヒに所蔵され、1726年の楽器は現代のピアノのほぼ全ての特徴をすでに備えている。
同じ年に亡くなった人物
- アブドゥルガニー・ナーブルスィー (1731年)
- グスタフ・ザムエル・レオポルト (プファルツ=ツヴァイブリュッケン公) (1731年没)
- ブルック・テイラー (1731年没)
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- ルイーズ=イポリット (モナコ女公) (1731年没)
同じ地域に関係する人物
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- Zeffiro Furiassi (1974年没)
- エンツォ・サッキ (1988年没)
- ジュリアーノ・ダ・サンガッロ (1516年没)
- アルマンド・セガート (1973年没)