伝記
アルダブル(アルダブリウス)は、5世紀前半に東ローマ帝国でテオドシウス二世に仕えた将軍である。アラン人の出身で、「軍司令官」にあたる職を務めた。のちに同名の孫がいるため、年長のアルダブルとも呼ばれる。没年は500年とされるが、活動の記録は420年代のものである。
家族については、ゴート人の貴族で419年に執政官となったフラウィウス・プリンタの娘を妻にしたとされる。この結婚から息子アスパルが生まれ、アスパルは434年に執政官になった。アルダブルは、アスパルの子で同じ名を持つ孫、のちの執政官とは区別される。この孫は471年に父とともに亡くなったという。
421年、ローマとペルシアの戦争が起こると、アルダブルは東方の軍司令官として軍を率い、アルメニアに入ってアルザネナを荒らし、メソポタミアへ進んでペルシアに侵入しようとし、ニシビスを包囲した。ペルシアの将軍ナルセスを破って町を囲んだが、ペルシア王バハラーム五世が来るとの知らせに兵が動揺し、攻城兵器を焼いて混乱のまま退いたとも伝えられる。ペルシア側も同じ恐怖に襲われ、ユーフラテス川に殺到したという。勝利の知らせは9月にコンスタンティノポリスに届いた。422年には、マクシミヌスの助けを得て、ペルシアの将軍7人を待ち伏せて殺したともいわれる。戦争が終わるとプロコピウスに交代してコンスタンティノポリスに呼び戻され、宮廷に付く軍司令官になった。
424年、あるいは425年に、皇帝の命でアスパルとともにイタリアへ送られ、帝位を奪った簒奪者ヨハンネスを倒す遠征に加わった。ウァレンティニアヌス三世とその母ガッラ・プラキディアを助けるための遠征である。アスパルは騎兵を率いてアクイレイアへ向かい、アルダブルは歩兵とともに船でラウェンナの包囲に向かったが、嵐か悪風のために船はラウェンナの港に流れ着き、敵の手に落ちた。ヨハンネスはテオドシウスがこの将軍を救うために和平に応じることを期待し、アルダブルを丁重に扱った。アルダブルはその自由を利用して城内に通じる者をつくり、ヨハンネス軍の主だった将校たちを味方につけ、急いで近づくようアスパルに知らせた。アスパルが到着すると、簒奪者を捕らえてアクイレイアのプラキディアとウァレンティニアヌスの前に連れて行ったとされる。アスパルはこののち425年に町を奪い、簒奪者を破ったともされる。
コンスタンティノポリスに戻ったのち、東方の軍司令官として427年に執政官となった。同僚の執政官はヒエリウスだった。息子の象牙板には、笏を持つ姿で描かれているとされる。のちに、軍に入ったばかりのトラキア人マルキアヌスを自分の部下に加えた。この人物は450年から457年まで東ローマ皇帝となる。マルキアヌスは、アスパルに仕える前にアルダブルの家臣をしていたともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- プリュギアのダレス (500年(推定))
- ヘラクレアのマルキアノス (500年(推定))
- アンティオキアのヨハネス1世 (500年没)
- Marcellus Empiricus (500年(推定))
- カエリアス・アウレリアヌス (500年(推定))
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