伝記
アントーニ・ファン・レーウェンフックは、オランダの商人であり科学者である。1632年10月24日に生まれ、1723年8月26日に90歳で没した。歴史上はじめて顕微鏡によって微生物を観察した人物とされ、微生物学の父とも称される。
ネーデルラント連邦共和国のデルフトの東端、ライオン門の角にある家に、籠作り職人の子として生まれた。名のレーウェンフックは、この家の場所に由来する。父は幼いうちに亡くなり、母は1640年に再婚した。1648年、16歳でアムステルダムの織物商に奉公し、会計係や出納係も務めた。1654年にデルフトへ戻り、醸造家の娘バルバラと結婚して、織物と小間物の店を営んだが、商売の様子はほとんど知られていない。1660年にデルフトの役人として市の職務を担い、1669年に測量士の資格を得た。1666年に妻が亡くなり、1671年に妻の親戚コルネリアと再婚した。1675年には、同郷の画家ヨハネス・フェルメールの遺産管財人となった。1679年にはワイン計量官も務めた。こうした市の職務により暮らしは安定し、顕微鏡に打ち込む時間もあったとみられる。1694年に二度目の妻が亡くなり、五人いた子のうち娘のマリアだけが生き残った。
専門的な教育は受けておらず、英語もラテン語も使えなかったが、自作の顕微鏡で生物学上の重要な発見をした。織物商のころ、生地の品質を見るために虫眼鏡で細部を調べており、レンズの扱いには実務の経験が豊富だった。顕微鏡は、径1ミリ程度の球形のレンズを金属板の中央にはめ込んだだけの単眼式で、試料を載せる針はねじで微調整できた。生涯に作った顕微鏡は50ほどとされ、真作は現在ヨーロッパの博物館に9個残る。最高倍率は266倍で、観察記録からは500倍に達していた可能性も説かれる。レンズの製法は秘密にした。観察結果を発表する場を持たなかったが、1673年にデルフトの解剖学者デ・グラーフが王立協会へ送った書簡で紹介され、コンスタンティン・ホイヘンスもロバート・フックに紹介の手紙を送った。以後、継続して観察記録を王立協会に送り、日常のオランダ語で書かれた手紙を、フックがラテン語に訳して発刊した。1680年に王立協会会員、1699年にパリの科学アカデミー会員となった。
1674年、バーケルス湖の水を観察して、誰も報告したことのない動く物体を見つけ、微小動物と名付けた。この時の倍率は約200倍だった。1677年には精子も発見した。ただ、肉眼で見えない小さな生物を見たのは彼が初めてではない。観察力の鋭さでも重要で、昆虫は植物の種子から自然発生すると信じられていた当時、これらも親の産む卵から孵ることを見出した。砂粒との類推から微生物の大きさを計算し、微生物にも誕生と死があることも確かめた。手紙は約300通にのぼる。オランダ語で書かれたため、普及が遅れたともいわれる。
観察は評判を呼び、イングランド女王メアリー2世やロシアのピョートル大帝も訪れ、ピョートルには、ウナギの尾の血液の流れを見せたという。デルフトの旧教会に葬られた。2016年10月24日には、生誕384年を記念して検索サイトの特別ロゴが掲げられた。
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