HISTORICAL PERSON · 被爆死した人物没

清水直右衛門

日本のサッカー選手。1923年の第6回極東選手権競技大会の日本代表に選ばれ、中華民国戦でヘディングシュートを決めた。広島出身者として初の代表ゴールとされる。

生涯
被爆死した人物没
死亡地
日本(広島県 / 広島市)
出生地
日本(広島市)
出典
世界地図
日本(広島県)

伝記

清水直右衛門は、1902年12月16日に滋賀県で生まれ、広島県で育った戦前のサッカー選手である。ポジションはフォワードやディフェンダーで、日本代表の草創期を担った一人として知られる。呉服商の家に生まれ、父が広島市内に店を構えたのに合わせて、中学校に上がる前に広島市内へ移り住んだ。

広島県立広島第一中学校(現在の広島県立広島国泰寺高等学校)を卒業すると、神戸高等商業学校に入ってサッカー部に所属し、1924年に同校を卒業した。あわせて地元の鯉城蹴球団にも籍を置いた。1923年5月に大阪で開かれた第6回極東選手権競技大会では日本代表に選ばれ、5月23日のフィリピン戦でデビューした。翌日の中華民国戦ではヘディングシュートで1点を挙げた。日本は2試合とも敗れたが、この得点は日本の国際Aマッチ2ゴール目にあたり、広島出身者として代表初ゴールでもあった。戦前の国際試合は長く国際Aマッチと認められていなかったが、2007年6月に第6回以降の極東選手権大会を含む20試合が認定に改められ、このフィリピン戦が日本の国際Aマッチ第一戦となった。清水の代表出場は、この2試合である。

鯉城蹴球団では、6人のフォワードの一人として深山静夫らとともに戦い、1924年の第1回明治神宮競技大会兼ア式蹴球全国優勝競技会(第4回天皇杯全日本サッカー選手権大会)と、翌1925年の第2回大会(第5回天皇杯)で連覇に貢献した。1925年の準決勝は、ライバルの御影蹴球団との間で、日本サッカー史上最大の紛糾試合として今も語り草になっている。10月30日は1対1の引き分けで、日没により延長戦は翌日に持ち越された。翌31日の延長戦で御影が1点を奪い、決着したかに見えたが、鯉城側が、御影は前日に負傷した選手の代わりに登録外の選手を出したと抗議した。話し合いは6時間に及び、抗議は認められて再試合となったが、これも引き分けに終わった。11月1日朝8時から延長戦だけが行われ、ようやく清水が決勝ゴールを決めて3対2とし、3日がかり4試合の決着をつけた。選手たちは疲れ切っていたが、翌11月2日の決勝では東京帝国大学を3対0で破り、二連覇を果たした。1927年の第4回大会に出場した鯉城クラブのメンバーに、清水の名前は見られない。

現役を退いた後は、広島市内で呉服問屋の清水徳商店を営みながら、大日本蹴球協会中国支部の支部長も務めた。1945年8月6日、広島市に原子爆弾が投下され、広島市天神町で妻とともに爆死した。44歳だったとされる。

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