HISTORICAL PERSON · 1718年没

カール12世 (スウェーデン王)

スウェーデンのプファルツ朝国王。大北方戦争で北方同盟を破ってロシアのピョートル1世と争い、ウクライナのマゼーパと同盟した。親政開始後は取り調べの拷問を廃止した。

生涯
1718年没
死亡地
ノルウェー王国(エストフォル県 / ハルデン)
出生地
スウェーデン王国(The Royal Court Parish)
出典
世界地図
ノルウェー王国(エストフォル県)

伝記

カール12世は、1682年6月17日(グレゴリオ暦6月27日)に生まれ、1718年11月30日(グレゴリオ暦12月11日)に没したスウェーデン国王で、プファルツ朝に属する。在位は1697年から1718年。バルト帝国に君臨し、ロシアのツァーリ・ピョートル1世の好敵手として知られ、ヘーチマンのイヴァン・マゼーパと同盟したことでも有名である。日本では「北方の流星王」とも呼ばれる。

父は国王カール11世、母はデンマーク=ノルウェー王フレデリク3世の娘ウルリカ・エレオノーラで、国王夫妻に4人いた男子のうち、成長したのは彼だけだった。幼少期は主に母から教育を受け、これが人格形成に大きく影響した。4歳から優秀な教師陣に帝王学を教え込まれ、乗馬も4歳前に覚えた。射撃にも熟達し、11歳のときに熊を一撃で射殺して父王を喜ばせたという。1692年7月、10歳で母を亡くし、4年足らず後の1697年4月に父も没したため、14歳10か月で即位した。若年のため6人の摂政が置かれたが、議会との内紛から数か月で全権が委譲され、親政を始めた。親政後は取り調べでの拷問を廃止した。

1700年、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト2世、デンマーク=ノルウェー、ロシアが北方同盟を結び、大北方戦争が始まった。近隣諸国は若い王につけ込もうとしたが、カール12世はこれを出し抜いて国外へ進み、各地を転戦して同盟を打ち破った。同年8月にコペンハーゲンの北方に上陸してデンマークと講和し、8千の軍勢を率いてリヴォニアに急行して、11月のナルヴァの戦いでロシアに勝利した。顧問団はロシアへの追撃を勧めたが、アウグスト2世を罰することを選び、1702年にはワルシャワに入城し、7月のクリシュフの戦いでポーランド・ザクセン連合軍を敗走させた。1704年にアウグスト2世は退位させられ、スタニスワフ・レシチニスキが1705年9月に戴冠し、1706年のアルトランシュテット条約で和議が成った。

1707年8月、カール12世は騎兵2万4千と歩兵2万を率い、残るロシアへの進軍を開始した。1708年1月にヴィスワ川を渡り、7月にはロシア軍を撤退させたが、そこから苦難が始まった。ロシアの焦土作戦で補給が困難を極め、南へ転進した。南の目的の一つは、ヘーチマンのマゼーパと結ぶことだった。ところがマゼーパは本拠地を攻められて壊滅し、11月に合流したときには1,300人しか残っていなかった。1709年7月、ポルタヴァの戦いに敗れたカール12世は、黒海北岸のオスマン帝国領に亡命した。この戦闘の2週間前に狙撃を受けて足を負傷し、直接指揮を執れなかったという。マゼーパは亡命先で病没し、ロシア軍はカレリアとリヴォニアを制圧した。

オスマン帝国のアフメト3世を動かし、プルート川の戦いでピョートル1世を包囲させたが、結局は解放されてしまった。アフメト3世との関係は悪化し、1713年2月には軍営を急襲されて一時捕らえられた。妹の懇願もあって1714年9月に帝国を発ち、11月にシュトラールズントに着いたが、攻囲戦に敗れて帰国した。帰国後の1716年はスコーネを守り抜き、1717年から翌年はノルウェーに侵攻したが、1718年11月30日、フレデリクスハルド要塞を攻囲中に流れ弾に当たって死去した。この死には不審な点があるとされ、暗殺説が強まった時期もあるが、決着はついていない。生涯独身で、王位は妹が継いだ。戦争は1721年のニスタット条約で終結し、スウェーデンはバルト海の権益を失って大国の地位から転落した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物