伝記
ニコラ・ド・マルブランシュは、1638年8月6日にパリで生まれ、1715年10月13日に同じ町で没したフランスの哲学者であり、オラトリオ会の司祭である。ルイ14世と生没年が同じことでも知られる。アウグスティヌスの神秘的な思想と、理性を重んじるデカルトの哲学との総合をめざし、神の働きを軸に据えた独自の体系を築いた。
父はリシュリューの財務官で、国王の顧問官でもあった。十人とも十三人ともいわれる子の末っ子で、父と同じ名を付けられた。母カトリーヌ・ド・ロゾンの兄弟の一人は、カナダの副王を務めたとされる。脊柱の変形のため、16歳になるまで自宅で授業を受け、その後ラ・マルシュ学寮で学んで、1656年にパリ大学の学芸の修士号を得た。続く三年間はソルボンヌで神学を学んだが、そこでの論争の方法はあまり好まなかったという。1658年に国王の秘書官に任じられたが、1660年、母に続いて父を数週間の間隔で失った後、オラトリオ会に入った。やがて司祭に叙階された年に、デカルトの遺稿『人間論』に出会って強い感銘を受け、哲学に目覚めた。1699年には物理学者、数学者として王立科学アカデミーの名誉会員になった。
1660年代からは、パリのルーヴルのオラトリオ会修道院の一室で、およそ50年を送った。定まった聖務にはつかず、遠出もほとんどせず、1685年にノルマンディーで改宗した旧プロテスタントのための布教に赴き、1688年にペリゴール地方を訪れただけだった。体は弱く、慢性的な疲れに悩まされ、胆石の手術を何度か受けた。孤独で内省的で信心深い人物と評され、会の別荘に籠もって静かに著作をまとめることもあった。生涯の大半は著述と研究に費やされ、自説を批判する人々との激しい論争がその間に何度も挟まった。
主著『真理の探究』は、1674年に第1巻から第3巻、1675年に第4巻から第6巻が出された。感覚、想像力、知性、傾向性、情念、方法の各巻からなり、人間の心の働きを詳しく分析し、そこから生じる誤りを防ぐ方法で締めくくっている。刊行直後から大きな反響を呼び、ボシュエ、フェヌロン、アルノーらとの論争を経て、生前に5回改訂された。問題提起は論争の中で深められ、1688年の『形而上学と宗教についての対話』などに結実した。ほかに『自然と恩寵に関する論考』(1680年)、『道徳論』(1684年)、『キリスト教哲学者と中国哲学者の対話』(1708年)がある。中国の哲学は、中国から帰った宣教師の友人を通じて知ったとされる。
その主張は「すべての事物を神において見る」という句で知られる。人間は神の内にある観念を通じて外界を認識するとし、感覚や想像は真の認識をもたらさず、神の観念に至るきっかけにすぎないと考えた。物体の運動を認めつつも原因を物体そのものには与えず、衝突や精神の意欲を機会として神が運動を引き起こすと説き、この説は機会原因論と呼ばれる。デカルト流の心身二元論を解こうとした試みであった。その教説は教会の内外から厳しく批判され、一部の著作は禁書目録に載せられたが、文体の明晰さと優雅さは誰もが認めた。18世紀にはデカルト流の合理主義の主流を受け継ぐ者とみなされ、ヴォルテールやモンテスキューらにも影響を与えたと指摘される。1733年には、没後にウール=エ=ロワール県のメニル=シモンに墓所が建てられた。
同じ年に亡くなった人物
- チャールズ・モンタギュー (初代ハリファックス伯爵) (1715年没)
- 蒲松齢 (1715年没)
- トーマス・セイヴァリ (1715年没)
- ミール・ワイス・ホターキー (1715年没)
- トーマス・バーネット (1715年没)
同じ地域に関係する人物
- エドヴィージュ・フィエール (1998年没)
- マドレーヌ・ヴィオネ (1975年没)
- ジョゼフ・アレヴィ (1917年没)
- シャンタル・アケルマン (2015年没)
- オラス・セバスティアニ (1851年没)