HISTORICAL PERSON · 484年没

エウリック

西ゴート王国の王。ゲルマン人国家で最初の成文法典とされる「エウリック法典」を制定し、西ローマ帝国崩壊の混乱に乗じて勢力圏をフランス中部からイベリア半島南部まで広げた。

生涯
484年没
死亡地
フランス共和国(ブーシュ=デュ=ローヌ県 / アルル)
出生地
—
出典
世界地図
フランス共和国(ブーシュ=デュ=ローヌ県)

伝記

エウリックは、西ゴート王国の王(在位466年〜484年)である。440年ごろの生まれとも、420年ごろの生まれともいわれ、484年12月28日に没したとされる。兄のテオドリック2世の死去を受けて466年に王となり、ガリアとヒスパニアにまたがる王国を率いた。治世にはゲルマン法が成文化され、「エウリック法典」として知られる。これはゲルマン人が建てた国家で最初に定められた法典とされる。

西ゴート人は418年にアクィタニアに定住してトゥールーズ王国を建てており、その王はテオドリック1世、続いてその三人の子トリスムンド、テオドリック2世、エウリックと受け継がれた。エウリックは三男で、母はオストロゴート人の王女アマラベルガだったという。兄テオドリック2世を殺して王位に就いたとも伝わる。ゴート語のほかにラテン語を解したが、ローマ人の大使との会見ではこの言語を話すことを拒み、いつも通訳を求めたという。即位すると、首都トゥールーズから、東ローマ皇帝レオ、ヒスパニアのスエビ人の王、アフリカのヴァンダル人の王に使節を送って即位を知らせた。アドゥール川沿いのエール(現在のランド県)の近くにもよく滞在した。ここはガリアとヒスパニアの間に位置する要地だった。ガリア総督アルヴァンドゥスが彼を支えたともいう。宮廷にはゴート人のほか、セロナトゥスのようなガリア・ローマ人も加わり、高位の軍人にも旧元老院貴族の家柄の者がいた。

469年、ブルターニュ人の王リオタムスの軍をドルの戦いで破り、支配をロワール川にまで広げた。次にクレルモン司教区の奪取をめざした。ここは当時ブルグント王国に従属していた。これに対して連合が結ばれ、皇帝アンテミウスがブルグント人を支援するために送った軍は、471年にアルルで敗れ、皇帝の子アンテミオルスも戦死した。エウリックはオーヴェルニュに戦いを進め、長い包囲の末に475年にクレルモンは陥落した。降伏の条約をシドニウス・アポリナリスは「恥ずべきもの」と評した。こうして第一アクィタニア属州は完全に西ゴート人の手に入った。

ヒスパニアでは、ガリシアに入ったスエビ人が西ゴート人の支配地を攻めたため、西ゴート軍がルシタニアへ侵入し、473年にアストルガとコインブラを奪った。エウリックは、最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスが廃された476年に、イベリア半島のほぼ全域を手中にした。同じころから、ヴァンダル人は西ゴート王国に朝貢するようになったともいう。476年以降はマルセイユなどローネ川以東の拠点も奪い、477年には東ローマ皇帝ゼノンが、ヴァール川までの第二ナルボネンシスとアルプ・マリティームの領有を認めた。西ローマ帝国の混乱に乗じて、勢力はフランス中部からイベリア半島南部に及んだ。また418年の同盟条約を破棄し、王国は事実上完全に独立した。北ではまだ興ったばかりのフランク王国と争った。

エウリックはアリウス派のキリスト教徒で、ニカイア派(のちのカトリック)の司教たちとの関係は良くなかった。放置された教会を壊し、自らの権威に強く反抗する司教を追放し、471年のブールジュの大司教の選出でも、司教会議だけに選ばせなかった。ただし476年にアルルを取ると、教会との関係は変わっていったとされる。484年の終わり、エウリックはアルルで自然死した。長男で嫡子のアラリック2世が王位を継いだ。アラリックの母はラグナヒルドで、フランク人、ブルグント人、オストロゴート人のいずれかの王女とされる。エウリックにはほかに嫡出の娘もいた。

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