伝記
フェリド・ムラドは、アメリカ合衆国の内科医であり薬理学者である。1936年9月14日、インディアナ州ホワイティングに生まれ、2023年9月4日に86歳で世を去った。1998年にロバート・ファーチゴット、ルイ・イグナロとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。
父はマケドニア北部のゴスティバルから渡ったアルバニア人移民で、エリス島で手続きを受けた1913年に名をジョン・ムラドと改めたという。母はバプテスト派の家の出でイリノイ州オルトン出身であり、1935年に17歳で家を出て、39歳でイスラム教徒だった父と結婚した。ムラドは三兄弟の長男で、兄弟はカトリックとして育てられ、本人は大学在学中に聖公会の洗礼を受けた。家は小さなレストランを営んでおり、少年期は店の手伝いに明け暮れた。中学2年のとき、将来の希望として医師、教師、薬剤師の三つを作文に挙げている。
インディアナ州のデポー大学に奨学金を得て進み、1958年に化学の学位を取った。指導教員の勧めもあり、友人の父が1957年にクリーブランドで始めた医学博士と薬理学博士の課程に惹かれ、ケース・ウェスタン・リザーブ大学へ進んだ。同課程の初期の修了者として1965年に学位を得ている。その後マサチューセッツ総合病院で1965年から内科の研修医として研鑽を積み、1967年から公衆衛生局の一員として国立心肺研究所に勤め、1969年には同研究所の上級スタッフ研究員となった。奨学金は授業料の全額と年2,000ドルの手当を支給するもので、この課程が後に名高い医学者養成課程へつながったとされる。1970年にバージニア大学の准教授となり、1975年に教授に昇進、臨床研究センターや臨床薬理部門の長も務めた。1981年にスタンフォード大学へ移って退役軍人病院の内科部長などを歴任し、1988年にはアメリカ心臓協会のチバ賞を受け、同年スタンフォードを離れてアボット社で医薬品探索部門の副社長となった。1993年には自ら設立した会社モレキュラー・ジェリアトリクスを率いた。1997年にテキサス大学の医学部で統合生物学・薬理学・生理学の新しい学科を作り、2011年4月からジョージ・ワシントン大学の生化学・分子生物学科の教授を務めた。
主な研究は、ニトログリセリンとその類縁の薬が一酸化窒素を体内に放出し、細胞内の環状GMPを高めて平滑筋を弛緩させ、血管を広げることを示したものである。信号伝達の欠けていた段階はファーチゴットとイグナロが埋め、三人は1998年にノーベル賞を分け合った。ムラドとファーチゴットは1996年にアルバート・ラスカー基礎医学研究賞も受けている。生体内の情報伝達は、液体による化学的な伝達と電気による伝導で行われると考えられてきたが、一酸化窒素という気体でも情報が伝わることを明らかにした点が画期的だった。この仕組みの応用例の一つが、勃起不全の治療薬バイアグラの開発である。一方、同じ結論に独立して至ったサルバドール・モンカダが受賞しなかったことについては、ノーベル委員会への批判が出た。
1999年にはアメリカ達成アカデミーのゴールデン・プレート賞をファーチゴットとともに受け、米国科学アカデミーの会員でもあった。2015年にはリンダウ・ノーベル賞受賞者会議の最終日に、気候変動に関するマイナウ宣言に署名している。最期はメンローパークで迎えた。
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