HISTORICAL PERSON · 2023年没

ハラルド・ツア・ハウゼン

ドイツのウイルス学者。2008年にフランソワーズ・バレ・シヌシらとともにノーベル生理学・医学賞を受賞し、がん研究センターの所長も務めた。

生涯
2023年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州 / ハイデルベルク)
出生地
ドイツ連邦共和国(ゲルゼンキルヒェン)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州)

伝記

ハラルド・ツア・ハウゼンは、1936年3月11日にドイツのゲルゼンキルヒェンで生まれたウイルス学者である。カトリックの家庭に育ち、フェヒタのアントニアヌム・ギムナジウムでアビトゥーアを取得した。医学は1955年からボン大学、1957年からハンブルク大学、1958年からデュッセルドルフ大学で学び、1960年に医学博士号を得た。1962年に医師の資格を得た。

1962年にデュッセルドルフ大学の微生物学研究所で実験助手となり、約3年半を過ごした。その後はアメリカに渡り、フィラデルフィア小児病院のウイルス研究所で、ナチス・ドイツから逃れてきた著名なウイルス学者ヴェルナー・ヘンレとゲルトルート・ヘンレのもとで働いた。1967年には、エプスタイン・バール・ウイルスが健康なリンパ球をがん細胞に変えうることを初めて示した画期的な研究に加わった。1968年にペンシルベニア大学の助教授となり、1969年にドイツへ戻ってヴュルツブルク大学のウイルス学研究所の教授となった。1972年にはエアランゲン・ニュルンベルク大学、1977年にはフライブルク大学へ移り、ウイルス学・衛生学部門を率いた。1983年から2003年まではハイデルベルクのドイツがん研究センターの理事会長を務め、ハイデルベルク大学の医学教授でもあった。国際がん雑誌の編集長は2010年末まで務めた。

研究の領域は腫瘍ウイルスである。ルッツ・ギスマンとともに、尖圭コンジローマからヒトパピローマウイルス6型を単離し、そのDNAを取り出して、ヒトの腫瘍中のウイルスを見つける新たな道を示した。1976年には、ヒトパピローマウイルスが子宮頸がんの発生に重要な役割を果たすという仮説を発表した。1983年から翌年にかけて、共同研究者とともに、子宮頸がんの腫瘍から16型と18型を同定した。これらは子宮頸がんの約75パーセントの原因にあたるとされる。この発表は大きな科学的論争を呼んだが、のちに確認され、ほかの高リスク型のパピローマウイルスの研究の基礎となった。この成果によって、最初のワクチンが2006年に市販され、子宮頸がんの感染をワクチンで予防できるようになった。そのほか、サルのリンパ球向性ポリオーマウイルスの発見でも知られる。

1975年にロベルト・コッホ賞、1986年にチャールズ・S・モット賞、1994年にパウル・エールリヒ・ルートヴィヒ・ダルムシュテッター賞、2004年にドイツ連邦共和国功労勲章、2005年にプリンス・マヒドール賞などを受けた。2008年にはガードナー国際賞を受け、同じ年、ヒト免疫不全ウイルスを発見したリュック・モンタニエとフランソワーズ・バレ=シヌシとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。ただしこの受賞は物議をかもした。選考にあたるノーベル総会の委員の1人が、HPVワクチンの特許料を得ているアストラゼネカの取締役でもあったことが明らかになったためである。同社がノーベル賞の関連事業と提携していたこともあって批判は強まったが、同僚たちの多くは受賞は当然だと考え、ノーベル委員会の幹事は、その委員が投票時にワクチンの特許を知らなかったと述べた。

最初の結婚で3人の息子をもうけ、1993年には、ドイツがん研究センターの同僚で、1981年から共著論文を重ねてきたエテル=ミシェル・ド・ヴィリエと結婚した。ノーベル賞の自伝で、妻の研究上の貢献と支えに謝意を示している。2023年5月に87歳で亡くなり、没日は28日とも29日ともいわれる。

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