HISTORICAL PERSON · 2023年没

ジョルジョ・ナポリターノ

イタリアの政治家。共産党員として長く下院議員を務め、内務大臣や下院議長を歴任したのち、第11代大統領に就いた。若い頃はレジスタンスにも参加した。

生涯
2023年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ナポリ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ジョルジョ・ナポリターノは、1925年6月29日にイタリアのナポリで生まれた政治家である。父ジョヴァンニは自由主義者の弁護士で詩人、母カロリーナはピエモンテの貴族の家柄の出とされる。1941年に古典リセを卒業し、同年に一家はパドヴァへ移った。1942年にナポリ大学の法学部に入学している。大学時代には、ファシスト系の大学生組織に属しながら、ファシズムに反対する仲間たちと親しくなった。のちに彼自身が語ったところでは、その組織は反ファシズムの知的な力の温床であったという。

中学の頃から演劇に熱中していた彼は、大学時代に週刊誌へ劇評を寄せ、ナポリのメルカダンテ劇場などの舞台にも小さな役で出た。俳優になることを夢見ていたといい、ナポリの小劇場で俳優として活動した。また「トマッゾ・ピニヤッチェリ」の筆名で、ナポリ方言のソネット集を出版している。第2次世界大戦中はファシスト党に対抗するレジスタンス活動に加わった。1945年にイタリア共産党に入党し、ナポリの共産党青年団の指導者として活動した。1953年には代議院(下院)選挙に出馬して当選し、以後11期にわたり議員を務めた。1967年には党の指導部委員および書記局員となった。党内では穏健で改革を重んじる右派の「改良派」の有力者であり、1976年にはエリック・ホブズボームとの共著『イタリア共産党との対話』が出版され、日本でも翻訳された。1978年には共産党の高官として初めてアメリカ合衆国を訪れている。

1981年に党の下院議員団長となり、1986年に下院の対外政策・国際問題委員会の議長、1989年に欧州議会議員に就いた。1992年から1994年まで下院議長を務め、1996年には第1次プローディ内閣の内務大臣となった。1999年には欧州憲法委員会の議長に就任した。欧州共産主義グループの欧州議会議員アルティエロ・スピネッリとは盟友で、その評伝も書いている。2005年に終身の元老院議員に任命され、2006年5月、議会によりイタリア大統領に選出された。共産党出身者として初めての大統領である。

欧州統合を支持する立場で、アメリカ合衆国のヘンリー・キッシンジャーとも親しかったとされる。第1期の任期中には、第2次プローディ内閣のような中道左派の政権と、第4次ベルルスコーニ内閣のような中道右派の政権の双方を見届けた。2011年11月にベルルスコーニ首相が経済危機のなかで辞任すると、マリオ・モンティに組閣を求めた。批判者はこれを「大統領の政府」と呼んだ。2013年、任期が切れる5月で退任するつもりだったが、総選挙後の議会の混乱で後任候補が必要票を得られず、続投を求める声が上がった。87歳という高齢もあって当初は固辞したが、各派の指導者たちが要請したため渋々受け入れ、4月20日の6回目の投票で再選された。2期目を務めた大統領は初めてである。その後エンリコ・レッタ、次いでマッテオ・レンツィに組閣を委ねた。しかし89歳の身には限界だとして、2015年1月14日付で任期の途中に辞任した。在任は歴代最長となる約9年間と伝えられる。ウンベルト2世に身体的特徴が似て振る舞いが慎重なことから「ウンベルト王」と、共産主義者だったことから「赤い王子」とも呼ばれた。権限の大きさを批判する声がある一方、欧州債務危機の際にイタリアを安定させたと評価する声もある。2023年9月22日、ローマの病院で亡くなった。翌年9月10日には妻もその後を追うように世を去った。

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