伝記
ショーヨム・ラースローは、1942年1月3日にハンガリー王国のペーチで生まれ、2023年10月8日に81歳で亡くなったハンガリーの法学者・政治家である。2005年8月5日から2010年8月5日まで、第三共和政の第3代大統領を務めた。それ以前には憲法裁判所の初代所長として、民主化後のハンガリーの法の土台づくりに深く関わった。
父は弁護士のショーヨム・フェレンツ、母はレルケシュ・アランカである。1956年10月24日には、通っていた高校の学友たちとともに反共産主義のデモに加わった。1960年にペーチの大学で法学と政治学を学び始め、1964年とも1965年ともされる年に学位を得ている。1963年から1965年には国立セーチェーニ図書館で司書の訓練も受けた。1966年にはハンガリー科学アカデミー法律部の書記であったマードル・フェレンツから誘いを受け、ドイツのイエナ大学民法学部で助手を務めて、1969年にドイツ民法の博士号を取得した。帰国後は1983年までハンガリー科学アカデミーの国家法律研究所で研究者として働き、1977年には人と環境の保護を主な対象とする法学の論考を初めて発表した。1984年にはドイツのマックス・プランク外国私法・国際私法研究所で研修し、1988年にはフランクフルト大学で研究も行っている。1993年にはパーズマーニ・ペーテル・カトリック大学でも教え始めた。1970年から1975年は国会図書館にも勤めた。1981年には政治法律学の博士号を得ている。
1983年にエトヴェシュ・ロラーンド大学の法学部教授となり、1996年に法政治学部の学部長に就いた。1999年から2000年にはケルン大学の客員教授を務め、2002年にはアンドラーシ大学にも教授として着任した。一方、1980年代の初めから環境保護運動に加わっており、1984年には環境団体ドナウ・クルに参加して、ガブチコヴォ・ナジマロシュ・ダムの建設への反対運動などに加わった。1987年9月27日の集会で、カーダール政権に反対する知識人らとともに、当時は非合法だったハンガリー民主フォーラムの創設メンバーとなった。1989年には同フォーラムの執行部に入って憲法改正案を担当し、ポスト共産主義の法的・政治的基盤を設計する野党円卓会議にも積極的に参加した。1988年から1989年には公開クラブの書記を務め、1989年に独立法律家フォーラムの理事にもなっている。
1989年11月24日に新設の憲法裁判所の裁判官に選ばれ、副所長を経て1990年から1998年まで所長を務めた。この間に裁判所は死刑の廃止、補償法、国民投票の憲法上の内容、中絶に関する法律などの重要な問題で判断を下し、表現の自由や良心の自由の保護、同性のパートナーシップの憲法上の保護にも関わった。これらは国際的にも高く評価された。成文の条文そのものより憲法の「精神」を重んじる「見えざる憲法」の考えに立つ姿勢は、論争を呼んだ。
2005年6月7日、無所属の候補として立ち、フィデス=ハンガリー市民同盟とハンガリー民主フォーラムの支持を得て大統領に選出された。儀礼的な性格の強い職であり、2010年8月5日まで務めた。晩年は長い闘病生活を送り、81歳で世を去った。学者としての業績により、フンボルト賞(1998年)やハンガリー自由賞(2013年)などを受けている。
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