伝記
アウラングゼーブは、1618年11月3日に生まれ、1707年3月3日に没した北インド、ムガル帝国の第6代君主である。在位は1658年から1707年で、アーラムギールとも称される。第5代君主シャー・ジャハーンの三男で、母は妃ムムターズ・マハルである。グジャラート地方のダーホードで生まれ、1622年には、父フッラムが祖父の皇帝ジャハーンギールに反乱を起こして敗れたため、降伏条件の一つとして兄ダーラー・シコーとともに人質に送られた。1627年10月にジャハーンギールが没すると貴族アーサフ・ハーンに解放され、翌年に父が皇帝として即位した。
1633年6月7日、戦象の試合を観ていると一頭が向かってきたが、逃げずに象の額に槍を突き刺し、象に馬を刺されると地上で戦った。父は彼を褒めて褒美と「バハードゥル」の称号を与えたと、『パードシャー・ナーマ』は記している。若年よりイスラーム教に傾倒し、「ファキール」(貧者)や「ダルヴィーシュ」(托鉢僧)と呼ばれるほど熱烈なムスリムとなった。一方、アクバル以来の融和路線を支持する兄ダーラー・シコーとは激しく対立し、彼を「カーフィル」(背教者)とまで呼んだ。父がダーラー・シコーを偏愛したことも対立の要因だった。それでも父は弟の才能を認めており、ダーラー・シコーは「弟たちの間で油断ならないのは、あのナマーズィー(祈りを捧げる人)だけだ」と話していたという。
1636年7月24日以降、デカン総督となって南へ向かった。のちバルフ・バダフシャーンの太守となってサマルカンド奪還を目指したが、冬が迫ったため引き揚げた。1648年からのサファヴィー朝との戦争では、カンダハールを二度包囲したが、大砲不足や守備隊の食糧、ウズベク軍の接近により落とせなかった。1652年にデカン総督に再任され、1653年にファテーナガルをアウランガーバードと改めて拠点とした。1656年、ゴールコンダ王国の大臣ミール・ジュムラーが王と不仲になって帰順を申し出ると、これを受け入れて首都ハイダラーバードへ進み、1657年にゴールコンダ城を激しく攻めた。だが、兄ダーラー・シコーと姉ジャハーナーラー・ベーグムが父を動かして包囲の中止を命じさせ、4月13日に包囲を解いた。それでも莫大な賠償金を課し、帰路にはビーダルの城塞を落としている。
1657年9月に父が病床に臥すと、息子4人による皇位継承戦争が始まった。兄ダーラー・シコーらがそれぞれ兵を集める中、アウラングゼーブは慎重に動いてミール・ジュムラーとの合流を優先し、次男ムアッザムを送って説得に成功した。弟ムラード・バフシュとも同盟して連合軍を率い、1658年4月15日にダルマートプルでダーラー・シコー軍を破り、同年に帝位を継いだ。その後、兄弟3人を直接的・間接的に殺害し、父はアーグラ城に幽閉した。
治世は49年に及び、前半はアクバル以来の繁栄が続いた。厳格なスンナ派の信者として帝国をシャリーアで統治しようとしたが、融和路線に反する厳しい宗教政策がラージプートなど異教徒の離反を招いた。ヒンドゥーの復興を掲げるマラーターの指導者シヴァージーの抵抗にも長く苦しんだ。1681年以降はデカンに大挙して南下し、ビジャープル王国とゴールコンダ王国を滅ぼしたが、マラーターのゲリラ戦や重税への反乱、帝室の混乱に悩まされ、晩年は悲惨だった。1707年の崩御時に領土は最大となっていたが、崩御を契機に帝国は衰退・崩壊した。
同じ年に亡くなった人物
- ペッテル・ダス (1707年)
- ドシセオス2世 (エルサレム総主教) (1707年)
- ジェレマイア・クラーク (1707年没)
- Vincenzo da Filicaja (1707年)
- モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス (1707年没)
同じ地域に関係する人物
- Raaj Kumar (1996年没)
- Esther Victoria Abraham (2006年没)
- ビカイジ・カマ (1936年没)
- ギーター・ダット (1972年没)
- Savita Ambedkar (2003年没)