伝記
マーシャ・ハントは、アメリカ合衆国の女優である。本名はマーシャ・ヴァージニア・ハントで、1917年10月17日にイリノイ州シカゴで生まれ、2022年9月7日に亡くなった。活動はおよそ80年に及び、1950年代にはマッカーシズムの時代にハリウッドのブラックリストに載せられたことでも知られる。
父アール・ハントは弁護士で、のちに社会保障の行政に携わった。母ミナベルは声楽の教師でオルガン奏者だった。二人姉妹の妹だった。一家はメソジスト教会に熱心で、幼いうちにニューヨークへ移り、ハントは学校劇や教会の催しで演じ始めた。のちに名の綴りをマーシャに改めている。1934年、16歳でホレス・マン女子高校を卒業した。両親は大学進学を望んだが、3年次になる前に演劇を専攻できる大学が見つからなかったため、ジョン・パワーズ・エージェンシーでモデルの仕事を得て、セオドラ・アーヴィングの演劇学校で舞台演技を学んだ。1935年には最も稼ぐモデルの一人になっていたとされる。
ロサンゼルスの叔父を訪ねていたとき、新聞の写真をコメディアンのゼッポ・マルクスが見て、パラマウント映画からスクリーンテストを持ちかけられた。映画の道には当初乗り気ではなかったが、1935年6月、17歳で7年契約を結び、デビューした。1935年から1938年のあいだにパラマウントで12本に出演し、1937年には、まだ大スターになる前のジョン・ウェインと西部劇で共演した。契約は1938年に打ち切られ、共和国映画などの低予算のB級映画に出たのち、1939年にMGM作品で助演の役を得た。1940年の『高慢と偏見』ではメアリー・ベネットを演じ、1941年にはMGMと契約して6年間在籍し、21本の映画で主要な役を務めた。1944年には映画関係者による「明日のスター」の第7位に選ばれた。1939年の『風と共に去りぬ』では、メラニー役のスクリーンテストを受けたが、役はオリヴィア・デ・ハヴィランドに決まったという。1944年の出演作では、ドイツ人将校の婚約者であるポーランド人女性を演じた。この作品はホロコーストを扱った最初の映画とみなされている。
1930年代から40年代にかけては、自由主義的な性格の強い数多くの嘆願書に名を連ねた。1945年には映画俳優組合の理事会に誘われている。1947年には、下院の非米活動委員会の動きを憂えて、脚本家の夫ロバート・プリスネルとともに「言論自由の会」に加わった。その年の10月26日には、夫が共同で脚本を書いたラジオ番組に出て委員会に抗議し、翌日には映画人約30人とワシントンへ飛んで抗議した。しかし1950年6月に出版された『レッド・チャンネル』にブラックリストの一人として夫婦で名が載り、仕事を干された。1956年までの出演作は3本にとどまった。
1957年ごろから本格的に活動を再開し、映画、テレビ、舞台で長く活躍した。1971年には、同じくブラックリストに載ったダルトン・トランボが原作・監督を務めた『ジョニーは戦場へ行った』で、主演ティモシー・ボトムズの母を演じた。その間も公民権運動、国連の活動、環境保護、慈善事業に積極的に関わり、ホームレスや精神疾患の患者を救済する医療施設に長く多額の寄付を続け、諮問委員も務めた。1993年には1930年代と40年代の装いを扱った著書を出版し、2008年には短編映画に出演した。2013年には自ら作詞作曲した、同性同士の恋愛と結婚をテーマにした曲を発表している。2022年9月7日、ロサンゼルスの自宅で老衰のため亡くなった。104歳だった。
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