HISTORICAL PERSON · 2022年没

ウーヴェ・ゼーラー

ドイツの元サッカー選手。ハンブルガーSV一筋でプレーし、西ドイツ代表としてワールドカップに4度出場、ブンデスリーガ初年度に得点王となった。

生涯
2022年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州 / ノルダーシュテット)
出生地
ドイツ連邦共和国(ハンブルク)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州)

伝記

ウーヴェ・ゼーラーは、ドイツのハンブルク出身のサッカー選手で、ポジションはフォワードである。1936年11月5日に生まれ、1950年代後半から1970年代にかけてのドイツを代表する選手となった。小柄で太めの体形ながら、並外れた俊敏さとジャンプ力を備え、ボールの落下点に絶妙に合わせる得点感覚と旺盛な闘争心を持っていた。父のエルヴィンも兄もハンブルガーSVでプレーした選手で、父は戦間期のドイツで屈指の選手の一人と評されたという。ハンブルクの港で働く父のもと、三番目の子として育った。第二次世界大戦中、ナチスの兵士が少年団への入団を求めて自宅へ来たが、父が激しく反対したと伝えられる。

1946年、9歳でハンブルガーSVの下部組織に入った。1953年に18歳でトップチームに昇格し、翌1954年のDFBポカール、ホルシュタイン・キール戦でデビューして一人で4得点を挙げた。試合は8対2でハンブルクが勝った。当時のドイツの選手の給与は低く、国外に活躍の場を求める者もいて、ゼーラーにもイタリアやスペインから高額の誘いが届いた。1961年夏にはインテル・ミラノが、3年で150万マルクに加えて100万マルクの契約金、邸宅、社用車などの条件を示したともいわれる。だが彼は断り、現役生活を通じてハンブルガーSVでプレーし続けた。アディダスの創業者アディ・ダスラーに説得されたとも伝えられ、長く同社の代理人も務めた。

クラブでは1960年にドイツ選手権優勝、1960年と1963年にDFBポカール優勝に貢献した。1963年のポカール決勝ではドルトムントを相手に3得点を挙げている。ブンデスリーガが創設された1963-64シーズンには30得点で初代の得点王となった。ブンデスリーガでは通算239試合に出場して137得点、欧州のカップ戦では29試合で21得点を記録した。ドイツ年間最優秀選手には3度選ばれた。1972年に現役を退いたが、1978年にはアイルランドのクラブの一員として公式戦に1試合出場し、2得点を挙げた。選手生活を通じた出場は509試合で、ドイツ歴代最多である。

西ドイツ代表には1954年10月16日にデビューした。1958年のワールドカップ・スウェーデン大会で4位、1962年のチリ大会でベスト8、1966年のイングランド大会で準優勝、1970年のメキシコ大会で3位入賞に貢献した。4大会すべてで複数ゴールを挙げた選手は、ミロスラフ・クローゼと2人だけである。1962年から1970年まで主将を務め、1970年9月に代表を退くまでに国際Aマッチ72試合で43得点を記録した。1970年の大会では若いゲルト・ミュラーが台頭し、監督のヘルムート・シェーンは2人を同室とし、ゼーラーを中盤で起用して共存を図った。1972年にはドイツサッカー協会から、2人目の代表名誉主将に選ばれた。

1972年にはコメディアン主演の映画に友情出演もした。引退後の1995年にハンブルガーSVの会長となったが、1998年に財政上の不祥事が発覚し、本人は関与していなかったものの責任を問われて辞任した。2003年にハンブルク市の名誉市民となり、2005年8月にはホームスタジアムの前に銅像が建てられた。2008年には1896年建造の帆船の名誉船長に任命された。孫のレヴィン・エズトゥナリもサッカー選手である。ハンブルクでは今も「私たちのウーヴェ」と親しみを込めて呼ばれる。2022年7月21日に死去した。

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