伝記
ウラジーミル・ジリノフスキーは、ロシア自由民主党の創設者で、ロシア連邦の政治家である。1946年4月25日、ソビエト連邦のカザフ共和国の首都アルマアタ(現在のアルマトイ)に、法律家の家庭の子として生まれた。生まれたときの姓はユダヤ系の「エイデリシュチェーイン」で、母はモルダヴィア出身のロシア人、父はウクライナ西部出身のユダヤ系だった。極右的な発言からロシア民族主義者と見られがちだが、自身は父方を通じてユダヤ人の血を引いていた。当初は反シオニストやユダヤ陰謀論者として知られたが、2003年に父の墓があるイスラエルを訪れてからは、ロシアとイスラエルの関係強化を唱えるようになった。
1964年にモスクワへ移り、モスクワ大学でトルコ、アジア、アフリカなど東方の国々の言語を学び始めた。国際関係学部にも所属し、1972年から1977年までは法学部の夜間部で学んで優秀な成績で卒業した。1970年にはソ連軍のザカフカス軍管区参謀部で将校として勤務し、1983年から1990年までは出版社「ミール」で働いた。ロシア語、トルコ語、英語、フランス語、ドイツ語を話し、中東とカフカス問題の専門家を自称した。
ペレストロイカで様々な団体が生まれる中、「民主同盟」で政治活動を始め、1989年12月にウラジーミル・ボガチェフとともに「ソ連自由民主党」の創設に加わった。1990年4月に党を結成して議長となり、同党はソ連で2番目に登録され、公式に認められた最初の野党となった。ただし、ソ連共産党政治局員だったヤコブレフは、この党は共産党執行部とKGBの共同の計画だったと回顧録に書いている。ジリノフスキー自身はKGBの工作員だったという見方を否定した。1991年6月のロシア共和国大統領選挙に立候補し、「ウォッカの値下げ」など大衆迎合的な公約を掲げた。泡沫候補扱いを受けたが、約600万票、得票率7.81パーセントを得て、エリツィン、ルイシコフに次ぐ第3位となった。同年8月のクーデターでは、ヤナーエフ副大統領らの「国家非常委員会」を支持した。
ソ連崩壊後の1992年4月に党名をロシア自由民主党と改め、旧ソ連の復活、アラスカのロシアへの返還、北方領土返還の拒否、東京への原爆投下発言など過激な言動で西側諸国から危険視された。それでも、ショック療法による生活苦にあえぐ人々の支持を集め、1993年12月の下院選挙で自由民主党は第1党となり、約23パーセントの票を得た。ジリノフスキー自身も当選した。しかし奇矯な振る舞いが続いて支持を失い、1995年の下院選挙では共産党に第1党の座を譲った。1996年の大統領選挙は得票率5.7パーセントで第5位に終わった。この選挙のころから、表向きは政府を批判しつつ最後には支持する姿勢をとるようになり、プーチン大統領に近い人物といわれた。1999年の下院選挙では党が登録できず、「ジリノフスキー・ブロック」を急ごしらえして臨み、のちに下院副議長に選ばれた。2000年の大統領選挙は所得税の申告漏れを理由に登録を拒まれた。2008年には得票率10.6パーセントで落選し、2012年は6.22パーセントで5人中4位だった。
テレビの討論番組で相手に殴りかかったり、ネムツォフにコップの液体を浴びせたりと、騒動で知られた。2022年2月2日に新型コロナウイルス感染症で入院し、肺水腫と敗血症性ショックと診断されて人工呼吸器をつけたと報じられた。4月6日、闘病の末に死去したと、下院議長ヴォロジンが発表した。妻ガリーナ・レベデワとの間には息子イーゴリがいる。
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