HISTORICAL PERSON · 2022年没

イブラヒム・ブバカール・ケイタ

マリ共和国の政治家。首相や国会議長を務めたのち、2013年に大統領に就任したが、2020年8月のクーデターで辞任した。

生涯
2022年没
死亡地
マリ共和国(バマコ)
出生地
マリ共和国(クティアラ)
出典
世界地図
マリ共和国(バマコ)

伝記

イブラヒム・ブバカール・ケイタは、西アフリカのマリ共和国の政治家で、頭文字からIBKとも呼ばれた。1945年1月29日、フランス領スーダンのクティアラに生まれた。祖父は第一次世界大戦のヴェルダンの戦いで戦死したという。1994年から首相、2002年から国会議長を務め、2013年には大統領に就任した。

13歳でフランスに渡って中等教育を受け、パリのリセ・ジャンソン=ド=セリーとバマコのリセ・アスキア=ムハンマドで学んだ。その後ダカール大学、パリ第1大学、近代国際関係史研究所で学び、歴史学の修士号のほか、政治科学や国際関係論の学位も得た。学業を終えるとフランス国立科学研究センターの研究員となり、パリ第1大学で第三世界の政治を教えた。マリに帰国してからは欧州開発基金の技術顧問として、欧州共同体によるマリでの小規模開発計画の実施にあたり、その後は国際NGO「人間の大地」のフランス支部で、マリ、ブルキナファソ、ニジェールを担当する所長を務めた。

1991年にマリ民主主義同盟が結成されると、アフリカおよび国際関係部長に就いた。1992年の大統領選挙では、同盟のアルファ・ウマル・コナレの陣営で副本部長を務め、当選したコナレに上級外交顧問兼スポークスマンに指名された。同年11月にはコートジボワール、ガボン、ブルキナファソ、ニジェールの大使となり、1993年11月に対外関係・在外マリ人・アフリカ統合担当相、1994年2月4日に首相となった。首相としては、国際通貨基金と世界銀行が求めた改革に反対せず、学生運動を抑え込む立場にもなったとされる。1997年9月13日にいったん辞任したが、すぐにコナレから再任され、同月16日に新政権を発足させた。1999年には社会主義インターナショナルの副代表に指名された。

2000年2月14日、党内の対立から首相を辞任し、10月には党代表も退いた。2001年6月30日に「マリのための団結」を結成し、以後これを率いた。2002年の大統領選挙では多くのイスラム教徒の指導者や団体の支持を得たが、首相時代にカジノや宝くじを導入したことから、政策とイスラームの両立を疑う声もあった。第一回投票は得票率21%で3位となり、2位のスマイラ・シセにわずか4,000票弱及ばなかった。不正を訴えて無効を求め、憲法裁判所は重大な不正を認めたものの、決選投票は上位2人で争うと裁定した。ケイタはこれを受け入れ、決選投票ではアマドゥ・トゥマニ・トゥーレの支援を表明した。同年7月の国会議員選挙でバマコ第4コミューンから当選し、9月16日、138票中115票を得て国会議長に選ばれた。

2007年の大統領選挙にも立候補したが、トゥーレの圧勝で、得票率19.15%の2位に終わった。ほかの候補者とともに民主主義共和国戦線を組んで不正を訴えたが、憲法裁判所がトゥーレの当選を認めると、その裁定を尊重すると述べた。同年の国会議員選挙では再選されたものの、国会議長には再び立候補しなかった。

2013年の大統領選挙では最有力候補とされ、決選投票でスマイラ・シセを破って当選し、9月4日に宣誓した。2018年の選挙では第一回投票で41.4%を得て首位に立ち、決選投票で67%の票を獲得して再選された。

2020年8月18日、一部の兵士に首相とともに身柄を拘束された。翌19日早朝、国営テレビで辞任と議会の解散を表明した。8月27日に解放されて自宅に戻った。同年には軽度の脳卒中を患い、2022年1月16日、バマコの自宅で死去した。

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