伝記
工藤壮人は、東京都出身の元プロサッカー選手である。1990年5月6日に生まれ、2022年10月21日に没した。ポジションはフォワードとミッドフィールダーで、日本代表にも選ばれた。杉並区で生まれて2歳で足立区に移り、兄の影響で3歳ごろからボールを蹴り始めた。小学4年生から柏レイソルのアカデミーに加わり、高校は日体大柏高校に通った。ユース時代は酒井宏樹らとプレーし、日本クラブユースサッカー選手権では決勝まで進んで大会得点王となった。
2009年にトップチームへ昇格した。U-10世代から9年間下部組織に所属した選手の昇格は、クラブ史上2人目だった。同年10月にJ1で公式戦初出場を果たし、2010年3月にJ2のアビスパ福岡戦で初得点を記録した。同年はU-21日本代表としてアジア競技大会の金メダルを獲得し、リーグ戦で10得点を挙げた。J1に復帰した2011年は後半戦から出場機会を増やして7得点を記録し、昇格初年度でのJ1優勝というJリーグ史上初の快挙に貢献した。クラブワールドカップでも得点している。2012年にはクラブのエースの地位を築き、リーグ戦でチームトップの13得点を挙げた。天皇杯では準々決勝と準決勝で続けて決勝点を決め、決勝は累積警告で出場できなかったものの、クラブ37年ぶりの優勝に大きく貢献した。
2013年には自ら願い出て北嶋秀朗の背番号9を受け継いだ。5月に日本代表に初めて選ばれ、7月の東アジアカップの中国戦で国際Aマッチに初出場して初得点を挙げ、日本の初優勝に貢献した。同大会では全3試合に出場している。ナビスコカップ決勝の浦和レッズ戦では決勝点を決めて優勝に導き、大会MVPに選ばれた。リーグ戦では33試合に出て19得点を記録し、北嶋が持っていたクラブの日本人最多得点記録を更新した。2014年は右サイドで起用されることが多く得点は7に減ったが、リーグ戦全試合に出場し、Jリーグフェアプレー個人賞を受けた。2015年7月にはJ1通算53得点目でクラブ歴代最多得点者となった。
2016年にアメリカのバンクーバー・ホワイトキャップスへ移り、移籍後初得点を挙げたが、直後の試合で相手GKと交錯して顎の骨を折り、2か月離脱した。2017年からサンフレッチェ広島に在籍して不振が続き、2019年にはレノファ山口FCへ期限付きで移って27試合4得点にとどまった。その後は海外クラブの練習参加で不合格が続き、母校の練習に加わって現役続行を目指した。2020年12月にオーストラリアのブリスベン・ロアーFCへ入団したが、2021年8月に契約を解除された。2022年にはJ3のテゲバジャーロ宮崎に加わり、第2節と第3節で2試合連続得点を決め、リーグ戦16試合連続で出場した。
2022年10月2日に体調不良を訴え、3日に水頭症と診断された。11日に手術を受けたが容態が悪化し、17日から集中治療室で治療を受けた。10月21日に入院先の病院で死去した。翌日の宮崎の試合では選手が背番号9のシャツを着て黙祷を捧げ、国立競技場のルヴァンカップ決勝では広島のベンチに名前入りの背番号9のユニフォームが掲げられ、両チームのサポーターも横断幕で悼んだ。パワーやスピードで際立つ長所はないと自ら語ったが、洞察力と戦術眼に優れ、守備にも献身的なストライカーだった。2013年に結婚し、2018年に長女が生まれている。
同じ年に亡くなった人物
- マデレーン・オルブライト (2022年没)
- ウーゴ・フェルナンデス (2022年没)
- アイリーン・キャラ (2022年没)
- マルティン・バンゲマン (2022年没)
- ジャン=ジャック・サンペ (2022年没)