HISTORICAL PERSON · 2022年没

ユースフ・アル=カラダーウィー

エジプト出身のイスラム法学者。衛星放送局アルジャジーラの人気番組で信徒の質問に答え、そのファトワーは世界のイスラム教徒に大きな影響を与えた。柔軟な解釈で知られ、保守派からの批判もあった。

生涯
2022年没
死亡地
カタール国(ドーハ)
出生地
エジプト・アラブ共和国(Saft Turab)
出典
世界地図
カタール国(ドーハ)

伝記

ユースフ・アル=カラダーウィーは、1926年9月9日に生まれ、2022年9月26日に没したエジプト出身のイスラム法学者(ウラマー)である。カタールのドーハを拠点に活動し、国際ムスリム学者連合の会長を務めた。イスラム界で最も著名な法学者の1人とされ、その出すファトワーはアラブ社会のみならず世界のイスラム教徒に大きな影響力を持った。

ナイル・デルタの村サフト・トゥラーブに、貧しい敬虔な農民の家の子として生まれた。2歳で父を亡くし、母と叔父に育てられたとされる。10歳になる前にクルアーンをすべて暗記した。タンタの宗教学院に進み、9年の学びを終えている。在学中、ムスリム同胞団の創設者ハサン・アル=バンナーが学校で講演するのを聞き、その印象を生涯にわたるものとして書き残した。その後、カイロのアル=アズハル大学で神学を学び、1953年に卒業した。1958年にアラビア語・文学の修了証を得て、1960年にはクルアーン学の修士号を取得した。1973年には、ザカート(喜捨)が社会問題の解決に及ぼす効果を論じた論文で、アル=アズハル大学の博士号を得た。

ムスリム同胞団との関わりから、1949年にファルーク王の下で投獄され、ナセル大統領の時代にもさらに3度投獄された。1960年代に国を離れてカタールへ渡り、1962年にアル=アズハル大学から派遣されてカタールの宗教教育中等学院の長を務めたともいわれ、渡航の時期は1961年、1963年とも伝えられる。1977年にはカタール大学でシャリーア・イスラーム学部の礎を築いて学部長となり、同年、預言者伝とスンナの研究センターも設立した。1990年から翌年にかけてはアルジェリアのイスラーム大学で学術評議会の議長を務め、再びカタールに戻って同大学の研究センターの所長となった。1997年には、西欧のムスリム少数者のためにファトワーを研究・発表する欧州ファトワー研究評議会の設立に加わり、その長を務めた。

アルジャジーラの看板番組「シャリーアと人生」にメインゲストとして出演し、視聴者から寄せられる社会生活上の質問に、豊富なクルアーンの知識で答えた。視聴者は世界で4千万から6千万人と見積もられている。マスメディアやインターネットを活用して国境を越えたイスラム社会の団結を図るべきだと考え、1997年に開設に関わったウェブサイト「イスラーム・オンライン」では主任の宗教学者を務めた。著作は120冊を超え、1994年にはキング・ファイサル国際賞イスラム研究部門を受賞した。

解釈は非常に柔軟で、女性の社会参加に寛容であり、夫婦の性生活では双方の自由意思を尊重する立場をとったため、保守的なイスラム教徒からは欧米に迎合していると批判されることもあった。一方で、パレスチナ武装組織によるイスラエルへの自爆攻撃を自衛手段として擁護したことなどから、テロ支援者と目されることもあり、2008年に英国、2012年にフランスへの入国を禁じられた。2006年にローマ教皇ベネディクト16世がジハードを批判した際には、クルアーンの「宗教に強制はあってはならない」を引いて非難した。2014年にイスラム国の指導者がカリフを宣言した際には、厳密な法解釈では無効だと断言した。2011年のエジプト革命後には1961年以来初めて帰国し、タハリール広場で金曜礼拝を導いた。2022年9月26日に死去した。

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