HISTORICAL PERSON · 2021年没

ドナルド・ラムズフェルド

アメリカ合衆国の政治家。フォード政権とブッシュ(子)政権で国防長官を務め、イラク戦争では強硬な攻撃論を主張した。

生涯
2021年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューメキシコ州 / タオス)
出生地
アメリカ合衆国(St. Luke's Hospital)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューメキシコ州)

伝記

ドナルド・ラムズフェルドは、1932年7月9日にイリノイ州シカゴのエバンストンに生まれたアメリカ合衆国の政治家である。祖父はフランドル系で、ブレーメンからの移民だった。奨学金を得てプリンストン大学に通い、卒業後の1954年からアメリカ海軍でパイロットおよび飛行教官を務め、全米海軍レスリングチャンピオンにもなった。同年に妻のジョイスと結婚した。

1957年からワシントンD.C.でオハイオ州選出の連邦下院議員の行政補佐官を務め、1960年から1962年は投資銀行のA.G.ベッカーに勤めた。1962年にイリノイ州から共和党の連邦下院議員として30歳で当選し、以後4期連続で当選した。若手議員のころは共和党内で比較的リベラルな投票行動で知られた。1964年の選挙の敗北に危機感を抱いた若手の一人として、院内総務にジェラルド・フォードを擁立し、成功させた。

1969年に下院議員を辞職し、リチャード・ニクソン政権で機会均等局長や大統領補佐官などを務めた。後に副大統領となるディック・チェイニーは機会均等局での部下だった。1973年にはブリュッセルで北大西洋条約機構のアメリカ大使に就いた。1974年8月にフォードの大統領首席補佐官となり、1975年には史上最年少の43歳で第13代国防長官に就任した。この間、ソ連が国防費を増やし秘密兵器開発を進めているとの見解を示して軍の発言力を高め、軍拡競争の再燃を招いたとされる。対ソ認識は厳しく、デタント政策に批判的で、国務長官ヘンリー・キッシンジャーとは対立した。

1977年に国防長官を退くと、製薬会社G.D.サール社の経営トップとして大胆なリストラで業績を上げ、1990年から1993年には通信企業ジェネラル・インスツルメンツのCEO兼会長を務めた。1997年から2001年はタミフルの特許を持つギリアド・サイエンシズの会長だった。レーガン政権では諮問機関の委員を歴任し、1983年にはイラクとの国交正常化の特使として、サッダーム・フセインと90分にわたり会談した。1998年には弾道ミサイル脅威評価委員会の委員長として、北朝鮮などの弾道ミサイルの脅威とミサイル防衛の必要性を指摘する報告書を提出した。翌月に北朝鮮がテポドン1号の発射実験を行い、報告書の分析は裏付けられた。

2001年1月20日、ジョージ・W・ブッシュ政権で史上最年長の68歳で第21代国防長官に就任した。同年9月11日の同時多発テロでは、ペンタゴンに旅客機が激突した際に難を逃れ、倒れていた女性職員を抱えて避難させた。アフガニスタン紛争とイラク戦争で指導的役割を果たし、イラク戦争では少数兵力による迅速な制圧を唱え、占領に数十万人が必要と主張した陸軍参謀総長エリック・シンセキと対立した。しかし占領は難航し、兵士の戦死が相次いだ。遺族への追悼の手紙の署名を機械によるものに変えていたことが2004年末に発覚して非難を浴び、囚人虐待事件への対応も批判された。2006年11月8日の中間選挙で共和党が敗れると辞任した。

退任後はフーヴァー研究所のフェローに指名された。2021年1月には、政権移行の妨害に協力しないよう呼びかける歴代国防長官10人の共同声明に名を連ねた。2021年6月29日、ニューメキシコ州タオスの自宅で死去した。多発性骨髄腫を患っていたとされる。議員生活で得た心得をまとめた『ラムズフェルドのルール』は出版され、ビジネスの心得にも応用された。

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