伝記
マムヌーン・フセインは、1940年12月23日に生まれ、2021年7月14日に没したパキスタンの繊維業の実業家であり政治家である。2013年から2018年まで、同国の第12代大統領を務めた。
イギリス領インド帝国のアーグラで、ウルドゥー語を母語とする家庭に生まれた。父の家系の家業は代々、皮革と履物の商いであったとされ、父はウスタード・ザファル・フセインという。インドとパキスタンの分離独立後の1949年、一家はカラチに移住した。自宅で学んだのち、カラチ大学で商学を修め、1963年に卒業した。その後、カラチの経営学研究所の修士課程に進み、1965年に経営学修士の学位を得た。はじめは父の事業を支えていたが、のちに自らカラチで繊維会社を興した。
政治との関わりは早く、1968年にヌルル・アミンが率いるパキスタン・ムスリム連盟に加わり、カラチ支部の共同書記になったとされる。1970年に同連盟へ入ったとも伝えられ、党員として活動した。1993年にはナワーズ・シャリーフが率いる派に正式に参加し、シンド州の財務担当書記に任じられた。1997年にカラチ商工会議所の会頭に選ばれ、1999年5月まで務めて、実業界の指導者として世に知られるようになった。1997年から1998年にかけては、シンド州首相リアーカト・アリ・ジャトーイの顧問も務めている。
1999年6月にシンド州知事となったが、同年10月12日、ペルヴェーズ・ムシャラフらによる軍事クーデターでナワーズ・シャリーフの政権が倒れ、任期は短く終わった。このクーデターでは、連邦政府とすべての州政府が倒された。軍がシャリーフを孤立させようとするなかでも、フセインは彼への忠誠を保った。党内では、シャリーフに忠実な人物として知られていた。軍政を批判して政治犯になったこともあり、民主主義に尽くす政治家としての評価が固まったという。2002年の総選挙では国民議会の第250選挙区、カラチ第12選挙区から党の候補として出馬したが、5,565票で、統一行動評議会の候補アブドゥル・サッタール・アフガーニーに敗れた。
カラチ商工会議所の会頭であったアズハル・ハルーンは、「フセインは1999年まで政治とは無縁の世界に生きてきたが、彼の礼儀正しい話し方と専門的な能力がナワーズ・シャリーフに買われて、シンド州知事に任命されたのだ」と述べている。
2013年7月の大統領選挙では、あまり知名度は高くなかったものの、パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ・シャリーフ派の公式候補に選ばれた。間接選挙で行われた投票では432票を得て、唯一の対立候補ワジフッディーン・アハメド(77票)を破り、当選した。票差は355票であった。9月9日に大統領官邸(アイワーン・エ・サドル)で就任式が行われ、宣誓はパキスタンの最高裁判所長官が執り行った。式には政治指導層や軍の高官、外国の要人、メディア関係者、親族が列席した。就任時には、パキスタン史上2番目の高齢の大統領になった。分離独立でインドから移った家の出身としては2人目の大統領で、ムハージルの家系に属する。大統領としては目立たない存在で、国の政治で役割を見せることはまれだったが、ポリオ根絶の取り組みには関わった。任期は2018年9月8日に満了した。
2020年2月にがんと診断されて治療を受け、2021年7月14日、カラチで80歳で死去した。
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